自然の沢を生かした釣り堀はけっこう難しいぞ2008/08/11

湯沢町大川釣り場
新潟の湯沢町には4つのフィッシングパーク(釣り堀)がある。2つはいわゆる四角い池の釣り堀だ。1つは自然の流れを模した小川状の、いわゆるフィッシングパークである。
もう1つは湯沢の町中から少し離れ、苗場近くの自然河川(沢)を区切っての管理釣り場のような様相の釣り堀である。もちろん上流下流部とも明確な仕切りなどないので増水すれば逃げていってしまうのだろう。釣り場は数段の溜まりがあり、流れ込みや小さなプール状になっている平たいところもあるので、家族連れで楽しめる。
自然渓流との違いは大岩や沈み石が少なく障害物がないことだ。入れられている魚はイワナとヤマメであるが、もちろんみな100%の養殖物である。
こういうところでは時合いを外してしまうと、釣るのが結構難しいものである。狙い目は放流直後ということになるが、それでも普通の釣り堀よりは多少のテクニックや知識の有無が釣果に影響してくる。やはりここでも、魚のいないところに針を落としても釣れない、ということに変わりはない。
釣った魚は自分でさばいて、その場で焚き火で塩焼きにして食べる。自然の中で食べると養殖物でも美味しい。

甲府盆地を見下ろす「ほったらかしの湯」2008/08/23

ほったらかしの湯
笛吹川と石和温泉を見下ろす山の上に、有名な「ほったらかしの湯」があります。桃畑やブドウ畑の中を走るフルーツラインを登り、フルーツ公園の敷地を通り抜け、山の上に出ると大きな駐車場と木造の建物が見えます。あっちの湯とこっちの湯と呼ばれる2つの露天風呂が左右にあります。左の方の「あっちの湯」の方がいくらか新しく露天風呂も大きいです。
露天風呂のお湯は少しぬるくて、屋根付きの風呂の方が熱くて僕にはそちらが好みですが、やはりこの写真のように下界が見下ろせる露天風呂の開放感は何物にも代え難いものがあります。(写真撮影は禁止なのでこの写真は数年前に撮ったものです)

この温泉の利用時間は、日の出1時間前から午後10時までで、朝一番と夜景を見ながらの入浴が最高です。しかし人気の高さから観光バスまでもが上ってくるこの露天風呂では、清潔な温泉に入りたいのであれば朝一番が良いのでしょう。
温泉魂:http://www.asahi-net.or.jp/~hd2s-ngo/spa/index-spa_hobby.html

建物以外の設備検査と維持管理(温泉井戸)2008/08/23

井戸のメンテナンス
古い温泉井戸の検査・維持管理に行ってきました。この古い井戸は200mmφの内径があり、通常の圧力がかかっている状態だとわずかに自噴していました。錆び付いた管の蓋を溶断し管内を調査・検査します。仮設のポンプを降ろし汲み上げた時にどのくらい水位が下がるがをチェックします。この井戸はしばらく使用していなかったものらしく、管の下の方で詰まっているようなので現在の深さも併せてチェックします。
動力で汲み上げた時に水位がグッと下がりますが、ある水位で安定しているのでストレーナーが詰まっていることはないのでしょう。しかし底部はある程度埋まってしまっているようです。でもこの程度でしたら、井戸元の蓋を修繕しボルトを締め直し、本設のポンプを入れ替えれば使用可能となるでしょう。一応廻りを掘削し、現在敷設されている接続管を調査して検査終了です。

都市圏と違い、地方ではまだまだ井戸水(井戸水は一年中水温が安定しています)を住宅でもよく使います。飲み水は水道でまかないますが、井戸水を簡易水道としてその他の水に利用します。雪国では消雪の水はだいたいが井戸水ですので、最近では冬期の井戸水の使い過ぎによる地盤沈下が問題となっているところもあります。
しかし、井戸水は上手に使えば有用で、エコな資源(水資源、熱源)です。これを大切に使い続けるためには、建物本体や設備と同じように定期的な正しいメンテナンスが欠かせません。

甲府の町中に点在するオアシス「ブドウ棚」2008/08/23

甲府のブドウ棚
石和市や甲府市には町中のそこかしこに「ブドウ畑」が点在しています。今の時期、たわわに実った大きなブドウが棚の下にたくさん垂れ下がっています。暑い日差しの中、棚下だけが日陰で涼しげで、みずみずしいその大きなブドウの粒は本当に美味しそうで、そばを通る時に思わず手が伸びそうになります。

葡萄は僕に「異国の香り」を運んできます。20数年前にシルクロード・タクラマカン砂漠のクチャやカシュガルを旅した時に、同じようなブドウ棚をたくさん見ました。その時のブドウの粒はこんなに大きくはなかったけれども、その棚の作る日陰こそが砂漠の暑さを忘れさせる「オアシス」だったことが思いだされます。
中国の西、西安から汽車とバスを乗り継いで1週間もかかってたどり着いたカシュガルは、まさに砂漠の西の果て、パミール高原の始まる地です。ブドウ棚の下にいると、羊肉と香辛料の焼ける煙りとブドウの甘い香りが合わさった「シルクロードの臭い」が記憶によみがえってきます。

母校の図書館が新しくなっていました2008/08/26

母校のガラス張りの図書館
学生時代のクラブ(ワンダーフォーゲル部)の創設40周年記念式典の打合せで久しぶりに母校へ行ってきました。クラブOBも総数120名を超え、振り返ってみるとそれなりに歴史の出てきたクラブとなってきたなあ、と感慨深いです。
最近は工業系の大学学内でも、体育会系クラブの人気は今ひとつで、部員確保に窮しています。僕らがいた頃のように、複数のパーティーで編成することが出来て、夏山縦走や冬山登山など賑やかに山行することは今ではかなわず、少し淋しい感があります。

しかし、学内は僕が卒業した20数年前と比べ、新しい校舎・施設も増え設備も充実していました。
図書館も新しく、現代風のガラス張りのスケルトンな建物に変わっていました。芝生の緩やかに起伏のある敷地に建つ、なかなかきれいな建物でした。
日が落ちると、より一層印象的なフォルムを見せてくれることでしょう。

改正建築士法の内容の注目点とは・・2008/08/28

今年の11月から施行される改正建築士法であるが、具体的な中身がだんだん姿を現してきました。
なかでも、改正後の建築士法24条の7と省令案が建築士事務所に義務付ける「建て主との契約時に行う重要事項説明」の主な事項は、以下のとおりとなりそうです。

 ■建築士法24条の7関係

 ・作成する設計図書の種類

 ・工事監理の手法

 ・受注した業務の担当者が持っている資格

 ・設計料の金額と支払い時期

 ・契約解除に関する事項

 ■省令案

 ・建築士事務所の名称と所在地、開設者の氏名など

 ・設計または監理の対象となる建物の概要

 ・担当者のなかに建築設備士がいる場合には、その氏名

 ・下請けに委託する業務の概要と、委託先の担当者の氏名や住所

今までの設計契約書類の内容(たとえばJIAの契約書など)と比較すると、士法では工事監理の手法や受注した業務の担当者が持っている資格の明記などが新たに加わった形で、省令では下請けに委託する業務の概要と委託先の担当者の氏名や住所を明記するようになったのが大きな追加点です。
多くの設計事務所からは、改悪の法改正の上にさらにここまでしないと設計事務所・建築士は信用できないのか、という溜息が聞こえてきます。しかし、逆に考えるとそこまで信用度が落ちている(なかった)のだ、ということもいえるでしょう。

確かにここ数年で施工側(ハード面)に対しては、耐震基準や高気密など技術的な基準の引き上げが行なわれ、ある一定の成果を上げているのですが、設計(特に監理)側(ソフト面)はまだまだ世間の目からすると「ブラックボックス」的な面があるように思えます。
設計とは建築主に対し具体的に何を提供し、その対価がいくらで、完成したものに対し何を担保するのか、設計作業のメンバー構成を含めてそのへんを明確にすることは施主やあるいは社会に対して当然と言えば当然なのでしょう。

これは建築設計の話だけにとどまらず「第三者監理」の契約でも同じことがいえるのだと思います。

第三者監理ドットコム = http://www.daisanshakanri.com/

アフガニスタンでとうとう悲劇が起きてしまいました2008/08/28

afghanistan
ペシャワール会というNGOボランティア団体の日本人スタッフが、現地ジャララバード近郊で拉致され、殺害されたという信じられないような事件が起こりました。
志を持った若者が想い半ばにして、ボランティア活動をしていたまさにその地で銃の前に倒れたことは、どんなにか本人も無念だったろうと、本当に心が痛みます。
ただただ彼のご冥福を祈るばかりです。

僕の手元に一枚の色褪せた写真が残っています。これは僕が1979年の冬にアフガニスタンの首都カブールからジャララバードへ向かう時に撮ったモスク(祈りの場)の写真です。
この頃のアフガンは北からソビエト軍の侵攻を受け始めた時で、北の方(バーミアンなど)はソビエト軍にすでに押さえられ、ヘラートからカンダハルをとおりカブールへと走る南ルートが唯一の生命線でした。
12月も中頃になると首都カブール周辺でも対空砲火と爆撃音が聞こえ始めT72、T64といった戦車が迫っていました。僕はふるえながら隣国パキスタンとの国境・カイバル峠へと、機銃掃射で孔だらけになったオンボロバスを乗り継ぎ、一人逃げ出したことを思い出します。
国境を越えカイバル峠を下ると50kmほどでペシャワールに着きます。
ペシャワールで見た多くの戦争難民と傷ついたゲリラ達の顔や姿は今でも忘れられません。

彼の地に本当の平和が訪れるのは一体何時になるのだろう。いつ終わるとも知れない長い長い戦乱の歴史の中でこの事件は、両者のどちらにとってもお互いに不幸な出来事だったのだ、と思います。

合掌

アフガニスタン 19792008/08/31

カンダハル 1979
1979年初冬のアフガニスタン南の古都カンダハルのバザールメインストリートの写真です。
この年に入ってから本格的に始まったソビエト軍(当時はロシアではなく、USSR) の南下軍事進行は、翌年80年始めに全土を掌握してしまいます。僕の行った時はこの南の地域まではまだソビエトの軍事的占領下になく、一見すると平和なシルクロードの都という感じでした。
この写真からも、平和で静かな早朝の町並みが続いているように見えます。これから日が高くなるまでの間、バザールは人でごった返します。それでも町の出入り口やバスの先頭には、戦車や装甲車が配備されていましたし、買い物の人に交じってAK47やRPGを手にした人の姿も目につきました。

しかし、建築の設計を志していた日本からの若い旅人には、この埃っぽい、泥と日干しレンガの町並みでさえとてもエキゾチックに感じられ、砂漠のアルカディアのように思えたものでした。このアフガニスタンという国の持つ悠久の歴史と、二千年以上に渡るシルクロードの東西交流でもたらされた芸術、人々の姿が埃っぽい空気をアルカディアに感じさせたのでしょう。

この後、ソビエト傀儡政権、ムジャヒディン、ジハード(聖戦)、タリバーン、オサマ・ビン・ラディンと泥沼の内戦・戦乱へと切れ目なく続いていくことになります。
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