India Ladakh Lehの町並み … WanderVogel2012/03/01

Lehの町並み俯瞰
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Ladakh の中心地 Lehの高台に聳えている王宮から見下ろしたLehの町並みです。

Lehの町はインダス川源流部の標高3,500mの地にあり、このあたりでは最大の町です。
写真に写っているのは町の中心部ですが、町の大きさといってもだいたいこのくらいで、ここから外側には乾燥した高地の土漠地帯が広がっています。
上から斜め右下に走っている割と広い通りが、Lehの町のメインストリートです。

ここに住んでいるのは、チベット系のラダック人(チベット仏教徒)が大部分で、少数のインド系(ヒンディ)と山岳少数民族(ムスリム)が混在しています。

町並みのほとんど全ての家が、土(日干しレンガ)で出来ているので、写真に撮るとどうしても乾いた土色した印象になってしまいます。

無秩序に続く、細く曲がりくねった迷路のような路が町全体に走っていて、歩いているとすぐに自分の位置を見失ってしまいます。
そのような時にふと見上げた先に見える岩山頂上に建つ王宮は、絶好の目印になります。

ラジャスターン・ジョードプルの青い町並みや、アフリカ・モロッコのフェズの町をう~んと小さくしたような感じです。
といっても 分かり難いかもしれませんが、共通するもののある、独特のオリエンタリズムを感じさせてくれる町並みなのです。

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Ladakh Lehの岩山上にあるGompa(チベット僧院) … WanderVogel2012/03/01

LehのGompa
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Ladakh 中心地 Leh王宮からさらに見上げる岩山頂上のGompa(チベット僧院)と若い頃(28年前)の私。

Lehの町ですでに標高3,500mありますから、王宮はさらに高く、写真の上の方のGompaはさらにそこから急斜面を登って行きますので、かなりきつい!

それでもこのころは若く体力もあったので、元気よくガシガシと上まで登って行けました。


Ladakh周辺には前に書いたHemis GompaやLamayuru Gompaだけでなく、Spitok、Stok、Shey、Tikse など世界遺産級のGompa(チベット僧院)が多く点在しています。
それらをひとつひとつ訪ね歩いて、僧院の中を見せてもらうのが Ladakhの旅の楽しみです。
そこでは必ずお坊さん自らが、グルグル茶とツァンパでもて成してくれます。

500年以上経過したそれらのGompaの中に招き入れられると、高い小窓から差し込むわずかな光にうかぶ内壁面いっぱいに描かれた曼荼羅壁画に包まれます。
そこには神秘的で重厚なチベット仏教(大乗仏教)の世界/宇宙が広がっています。

チベット仏教の総本山、中国領ラサのポタラ宮やジョカン(大昭寺)とはまた ひと味もふた味も違った、素朴で信仰深いプリミティブな仏教僧院の佇まいを感じさせてくれます。

連続して・・・不定期に つづく

Ladakh・Zanskar、そしてHunza、Gilgitへ … WanderVogel2012/03/01

Ladakh・Zanskar
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Ladakhでよく見ていた、岩山と土漠とGompa(僧院)の風景です。

Ladakh・Zanskarの山々は赤っぽい土の禿げ山が多く、インダス川沿いを除くとほとんど木が生えていません。
こういう荒涼として極度に乾燥した高地(3,500m以上)に1ヶ月以上も滞在していますと、日本人としては山の緑が恋しくなります。

Lehから先に路を辿ると、ザンスカール高地の標高4891mの峠を超え、2日ほどでManariやKuluといった町(ヒマーチャル・プラデーシュ)にたどり着きます。

逆に、来た路をSrinagar(Kashimir)方向に戻ると、道路の北側一帯はパキスタンの軍事境界線(パキスタン占領下)と接します。
その向こう側はGILGIT(ギルギット)です。

この辺りは山好きには馴染みのある、憧れの山の名や地名がたくさん出てきます。
カラコルム山脈:K2(Mt.Godwin Austen 8611m)、ナンガ パルバット(8126m)、バルトロ氷河、スカルドゥ、ギルギット、フンザ、などなど
(次回はそこに行った時の話をBlogに載せていきます・不定期に)

Ladakh・Zanskarはこれで終了・・・不定期に つづく

チベット人の視線の先には(India・Dharamsala)1984 … WanderVogel2012/03/03

ダラムサラ 1984
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インド北部のヒマーチャル プラデーシュ州に、ダラムサラ(Dharamsala)の町はあります。

チベット亡命政府のあるダラムサラには、多くのチベット人(数万人の難民のうちの数千人がここに住んでいます)が亡命して来て住んでいます。1959年に突然始まった中共軍のチベット侵略から命がけで逃れて来た人たちです。

写真のチベット人たちの真剣な眼差しの先には、ダライラマ14世の姿があります。

私の行った1984年秋のある日、ダラムサラのナムギャル僧院で行なわれた法会の時のスナップです。
この時 法会に合わせてダライラマ14世による説法が行なわれました。
みなそれを聴くために集まって来たのです。

ダラムサラは19世紀にはイギリス人の避暑地としても使われた町ですが、インドが1947年にイギリスから独立するとイギリス人は一人もいなくなりました。
その後、亡命して来たダライラマ14世はインド政府からこの地を提供され、それ以後チベット亡命政府がここに置かれて、亡命チベット人にとって政治的・宗教的中心となっていきます。

建築的にはこれといって見るべきものもありませんが、ここに来る少し前に行った(1984年春)中国領ラサで、中国政府による(文化大革命の時のような)ラサ市内(文化的遺産)の大規模破壊や、チベット人の精神的よりどころの仏教僧院の組織的破壊などの惨状をリアルタイムに目にしてきた後でしたので、私にとってもダラムサラは一層思い入れの深い地でした。

ギルギット、フンザの話しをしようと思いましたが、チベット仏教つながりでダラムサラのことを一言書いてみました。

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チベット・ラサの空港(Tibet Lhasa)1984 … WanderVogel2012/03/03

チベット・ラサ空港 1984
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当時(1984年)中国を個人で長い旅(3ヶ月間)をするには、中国国内の「公安局」に何度も足を運ぶ必要がありました。

そのころ中国国内には渡航禁止都市、準開放都市、開放都市という(旅行者向け)区分が都市ごとにあり、VISAとは別にそれぞれの都市の名を記載したパーミッションが必要でした。
公安局にはVISAのエクステンド(延長申請)とパーミッションの都市追記をしてもらうために何度も足を運ばなければなりませんでした。
(というのも、ビザの延長も都市追記も一度にたくさんはしてくれないからです。)

四川省の成都(チョンドゥ)の公安局にエクステンドしに行った時に、ちょうどその月からラサが準開放都市になった、という話しを公安局員から聞き、すぐにラサの名を追記してもらいそれをもって空港に走り、航空券を手に入れました。(渡航禁止都市では航空券を買うことすら出来なかったからです。)
建築的にも文化的にも興味深い「国」、見てみたい 行ってみたいとすごく憧れていた「チベット」が思いがけず転がり込んできました。

写真はその時(1984年の春)のラサ空港到着のスナップです。
行きはジェット機(ボーイング707)でしたが、帰りはレシプロの4発プロペラ機(イリューシン、ツポレフ)でした。

空港には空港ビルも待ち合い室なども無く、滑走路はかろうじて舗装されていますが、それ以外はぐちゅぐちゅした水たまりのできた赤土の大地が広がっているだけでした。

ラサの町まで、写真のオンボロバスで半日程度 未舗装の道を走ります。

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空間の魅力“インドの建築・都市空間”… 日本建築学会/講演会2012/03/03

連続講演会「空間の魅力」
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日本建築学会主催の連続講演会「空間の魅力」第4回「インドの建築・都市空間」- イスラム空間とヒンドゥ空間を中心に -を聞いてきました。
講師は福井 通先生で専門は建築・都市の外部空間/都市デザインです。

講演主旨はインドの都市空間をシンプルに「イスラム空間」と「ヒンドゥ空間」の2つの世界に限定して、「秩序」と「混沌」など5つのキーワードで切り取って比較・分析する、というものでした。

講演会は、横浜・馬車道の海沿いに並んで建つ、大正時代に養蚕倉庫群と一緒に建設された養蚕事務所ビルの3階で行なわれました。
50人も入るといっぱいになる会議室が埋まるほどの盛況ぶりでした。
(1/3くらいは建築や都市計画専攻の学生達のようでした。)

私もインドやイスラム圏の建築や都市計画のことは結構勉強してきましたし、実際にさまざま見て歩いてきましたので専門的に理解しているつもりでしたので、この難しいテーマを短時間でどうまとめるのかすごく興味がありました。

福井先生は難しいテーマをあえてシンプルに2つに(乱暴に?バッサリと)限定して対比させて、理論立てて解りやすく、かつ楽しく説明・講演をしてくれました。
やはり話すのが商売の先生はしゃべりがうまい! と、感心しました。

いやぁ〜 また、インドに行きたくなりました。
(とりあえず、今夜はインドカレーを食べに行きます。)


ギルギット・フンザ(Gilgit Hunza)とクンジュラブ峠 1984 … WanderVogel2012/03/05

ギルギット・フンザ
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(パキスタン)ギルギット・フンザに行くには、ラワルピンディーからおんぼろバスに乗りカラコルムハイウェーをひたすらインダス川沿いにさかのぼり、中国国境に向かって走ります。

1984年当時、ラワルピンディからおんぼろ夜行バスでギルギットまで丸一日走り、一泊してギルギットからフンザ(カリマバード)まで乗合バスで半日の行程でした。
ギルギットまでのバスの旅は決して楽な行程ではありませんが、右手に憧れのナンガパルバット(8,126m)の姿をずっと見ながら走ることになるので、景色だけは素晴らしい。

このカラコルムハイウェーはフンザの先でクンジュラブ峠(パキスタンと中国国境)を超え、中国シルクロードの砂漠の隊商街 カシュガルへとつながっています。

実はここに来るまでには、かなりの回り道をしています。
というのも、ここに来る数ヶ月前、中国国内を西安から蒸気機関車で2日(ウルムチ)、そこからローカルバスで3日かけてカシュガルまで行っていたのです。
しかし、そこから先のクンジュラブ峠までは、完全に渡航禁止区域で当時は立ち入ることさえ出来ませんでした。
ですので、そこからもと来た道を戻って中国を横断し、東南アジア・インドをぐるっと回り込み、やっとこさクンジュラブ峠の反対側にたどり着いたという訳です。

フンザは、春には杏の花が山一面に咲き乱れて甘い香りの「桃源郷」へと変わります。
高い岩山の上にはバルチット城(私が訪れた1984年当時は、城の中はガランとした広い土の部屋が4層あるだけの空き家状態でした)が建っていて、その背後には大きな氷河が姿を見せていました。

城の屋上からは、雪を頂いたラカポシ(7,788m)の雄大な姿を見ることが出来ます。

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西域 タクラマカン砂漠・カシュガルへの道 1984 … WanderVogel2012/03/06

カシュガルへの道 1984
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西域 タクラマカン砂漠(土漠)の入り口の街 ウルムチから、このおんぼろバスで3泊4日 土漠の道(シルクロード)をひたすら西走すると、砂漠の街 カシュガルに着きます。

途中、カラシャール、クチャ、アクスといった砂漠の隊商町の土の宿に泊まりながらの爆走ローカルバスの旅です。(私が行った時(1984年)には、カシュガルにも滑走路が1本ありましたが、めったに飛行機が飛ばないので、主な交通機関はやはりこのバスということになります。)

土漠の道は北にテンシャン(天山)山脈、南にタクラマカン砂漠に挟まれたタリム盆地を東西に貫いて走っています。

カシュガルから先は、前にも書いたようにクンジュラブ峠(パキスタンと中国国境)を越えて(パキスタン領の)フンザ・ギルギットへとつながっています。
カラコルムハイウェーです。
(ハイウェーといっても、狭く険しい危険な山道です。)

このローカルバスの乗客のほとんどは地元ウイグル人です。その他、私にはまったく見分けがつきませんが、砂漠の少数部族が乗っています。

さすがに漢民族の姿はめっきり減って、周りの景色も、目に入る人々も、シルクロードっぽく? なってきます。

食事もカバブとマトンとナン、そして砂漠の果物(ブドウやウリ、ザクロなど)という感じになってきて、これもいかにもシルクロード色いっぱいになってきます。


ウルムチやカシュガルには歴史的にも建築的にも貴重な霊廟やモスクその他の遺跡などがたくさんありますが、その話しはまた別の機会に書きましょう。

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烏魯木斉雑詩 紀昀の七言絶句 … WanderVogel2012/03/06

砂漠に延びる道
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「烏魯木斉」と漢字で書いて「ウルムチ」と読みます。
西域 シルクロード・タクラマカン砂漠の入り口の街です。

中国の詩人の中には、辺境の地である西域に都監として赴任し、あるいは流され、そこの風光を詠んだ詩人が多くいます。
唐代の岑参(シンジン)や王昌齢、元代の耶律楚材(ヤリツソザイ)や薩都刺(サツトラ)など、時代を問わず多くの詩人が西域の歌を読んでいます。

清代の詩人「紀昀 (きいん)」もその一人で、30代半ばに「ウルムチ」に流され、そこでたくさんの七言絶句を詠んでいます。
その中に(背後に雪を頂いた天山山脈を持つ)シルクロードの砂漠ならではの生活風景を良く詠んでいるなぁ、と感じる好きな詩があります。

烏魯木斉雑詩 其一
山 田 龍 口 引 泉 澆
泉 水 唯 憑 積 雪 消
頭 白 農 夫 年 八 十
不 知 春 雨 長 禾 苗

意味は、
山近くの田園では、龍口(取水口)から水を引いて注いでいる。
その水はもっぱら山の上に降り積もった雪が解けたものによる。
ここ烏魯木斉では、齢八十にもなる白髪の老農夫でさえ、春に降る雨が稲を育むことを知らない。
というような意味ですが、
特に後半部はいかにもタクラマカンの農風景や風土を感じさせます。

(* 龍口とは、雪解け水を引く灌漑用トレンチの取水口のことですが、アフガンやパキスタンや新疆ウイグルではカレーズと言い、イランではカナートとよびます。)

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パシュトゥーンのブルカ記念写真 … WanderVogel2012/03/07

ブルカ 記念写真
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パキスタンでの事で、強烈に印象に残っている1枚の写真があります。
場所はパキスタンのどこだったか はっきり覚えていないのですが、ギルギットだったかペシャワールだったか、はたまたクエッタだったか、どこかの店先で1枚の写真を手に入れたのですが、それがこの写真です。

パシュトゥーンの女性陣が揃って家族写真を撮っている写真です。
けっこう強烈でしょ!
パキスタン西部からアフガニスタンの東/南部一帯にかけての山岳地域・土漠地域には、昔からパシュトゥーンと呼ばれる部族が住んでいます。

イスラムの教えでは女性が外出する際には、必ずチャードルを被らなければいけません。
(これは女性であれば旅行者もまったく同じ扱いです。)

イランのチャードルは日本でも知られているので、見たことがあるでしょうが、アフガニスタンやパシュトゥーンの成人女性の場合は、写真のように完全に顔が見えないように目の部分がメッシュになっている「ブルカ」という独特のチャードルを被って全身を覆っています。
こうなると、もう誰が誰だかさっぱり解らない状態です。

僕がアフガニスタンを旅した時(1979年)は、まさにこの状態でした。
とはいっても、79年のアフガンはソビエト軍の侵攻で国内はかなりの混乱状態で、町中で女性の姿を見ることもまれでした。
くわえて、厳格なイスラム圏では外国人が町の中で成人女性にカメラを向けることはかなりよろしくないので、僕はなかなかこういった写真を撮ることは出来ませんでした…

・・・不定期に つづく

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