檜皮葺き屋根の材料:ヒノキの樹皮 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/01

檜皮材料
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昨日のBlogで書いた檜皮(ひわだ)葺き屋根の材料、ヒノキの樹皮です。
檜皮は油分を多く含むため雨による腐食に強いといわれていますが、それでも30年~40年周期で葺き替えが行なわれます。

通常 檜皮(ひわだ)は、薄くはいだ樹皮(厚さ=1mm〜2mm程度)を長さ約75cm(ここではもっと長い材料でした)、短辺約15㌢の細長い扇形(平皮)に切った姿(写真)で現場に運び込まれます。

この檜皮を1.2cmくらいずつ、ずらしながら重ねて葺いてゆき、竹釘(真竹、孟宗竹)で下地材に固定していきます。
竹釘は長さ3.6cm、径3mm程度に切り揃えたあと天日乾燥、焙煎して作られます。
檜皮(ひわだ)葺き一坪(3.3m2)当たり、約1,800枚の檜皮を使って葺き、それを留め付ける竹釘も一坪当たり 平葺箇所で2,400本~3,000本という膨大な数の竹釘を使用すると言います。


檜皮(ひわだ)を取る際には、樹齢70年以上の充分な樹径のあるヒノキの立ち木から剥いで作ります。
ヒノキ本体は伐採せずに表皮だけを剥がすように採取しますが、10年も経つと樹皮はまた2㎜程度の厚さとなり、再び採取が可能となります。

ただ、最近では良質の樹皮の入手が難しいことや、樹皮を採取する原皮師(もとかわし)やその檜皮を加工する皮切師、屋根をふく檜皮葺師が減ったこともあり、他の伝統技術同様に檜皮葺きも伝統の技の伝承が危ぶまれています
原皮師(もとかわし)などは、現在日本にたった15名ほど残っているだけだと言います。

・・・定期的に つづく

雪国の黒漆喰で塗られた土蔵・その他 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/02

雪国の黒漆喰土蔵
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写真は先月見に行った十日町市(旧中魚沼郡川西町)にある星名家住宅の土蔵です。

星名家は江戸時代には酒造業を営んでいて、大地主も兼ねていた家柄で、この町家群は江戸時代末の天保13年(1842)に主屋が上棟したという記録が残っていることから、この土蔵もその頃に建てられたものと思われます。

街道脇に面して並ぶ3棟の土蔵は脇門を挟んで西側には縦羽目板張りの蔵が、東側には黒漆喰の蔵と白漆喰で仕上げられた蔵が連なって建てられていて面白い風情を出しています。

1階部分を覆う(豪雪地らしい)雪囲いを兼ねた縦羽目板張りと、その上に見える黒く磨かれた漆喰壁は重厚さと落ち着いた品格を感じさせます。
しかも、しっかりと管理がされていて漆喰面はピカピカに磨かれたままで、剥がれもヒビ割れも見えません。


日本酒が有名な新潟県でも、特に川西・十日町、湯沢・塩沢・六日町、小出・小千谷から長岡にかけての信濃川/魚野川に沿っての豪雪地帯は、有数の米どころ、酒どころですので、酒造蔵などが古くからたくさんあり、今でも明治・大正時代の建物や蔵を使って(残して)酒造りをしている蔵元が多くあります。

有名なところでは、長岡市の攝田屋(せったや)という所(JR宮内駅近く)は昔から醸造業の盛んな所で、現在でも醤油メーカーが3軒、酒造メーカーが3軒固まってあります。
みなそれぞれに昔からの木造の醸造作業所や土蔵、街道に面した大店を持っていて、珍しい煉瓦造りの煙突なども見ることが出来ます。

なかでも「機那サフラン酒製造本舗」の、大正時代(1912~1925)に建てられた土蔵は、蔵の外壁下半分は瓦と漆喰で仕上げられたナマコ壁で、軒下周りや開口部の観音開き扉の重厚な漆喰塗りの表面には、地元の左官職人「河上 伊吉」作と伝えられる精巧な極彩色の鏝絵が施され、大変珍しい、見事なものが残されています。

・・・定期的に つづく

伝統技法研究会/石の講座・東京芸術劇場 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/03

東京芸術劇場
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伝統技法研究会主宰で行なわれた連続講座「江戸・東京の都市空間と石材」に参加してきました。

最近内装を大きくリニューアルした「東京芸術劇場」で行なうというので、少し早めに行って内部もついでに見学してきました。

特に竣工時の1階から5階まで直接登る長いエスカレーターが撤去され、中2階を壁際に新たに造ってそこにエスカレーターを新しく配置し直したので、空間全体もより大きくなったように感じました。
なにより、評判の悪かった恐怖のエスカレーターの印象がだいぶ緩和されましたね。

駅から地下を通ってアプローチしてくる主要動線も整理され、使い易くなったのではと思います。
それと、1階エントランス部分に風除室を設けて外部と区切ることで、今まで半屋外だった1階フロアを室内化したのはとても良かった。

1階中央に円形の明るいチケット売り場を配置することで、大きなガラス屋根を持つ無機質な大空間全体に柔らかさが出ていました。
また、内装カラーリングも今回のリニューアルで全体的に暖色系にまとめられ、5階フロアも同様に大改装してあったのも好感が持てました。


「江戸・東京の都市空間と石材」の講座は、江戸から明治・大正・昭和と移り変わる時代と伊豆の石材との関係など、地質学の観点からの話しを織り交ぜながら解説されていて大変参考になりました。

横浜の洋館建築や東京の町家の中にも石造りの建物はまだ残っていますが、それらの建築物を造られた時代や様式・スタイルなどからだけでなく、その使われている「石材」にスポットを当てて考察してみると、またいろいろ違ったものが見えてくるものです。

そういう視点もあるのだということに気付かせてくれた、とても面白い講義でした。

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南アルプス/鳳凰三山(地蔵岳/観音岳/薬師岳)を登る … WanderVogel2012/10/06

南アルプス鳳凰三山
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10月6日(土曜日)、南アルプス/鳳凰三山を日帰りのソロトレッキングしてきましたが、またまた、山岳マラソンのようでした。

朝のうちはガスが掛かるほどでもなかったので朝日が暖かく、紅葉した木々にも光が当たりキラキラとまさに見頃でした。

しかし稜線に突き上げた頃になると、時間と共に一気にガスが上がってきて、鳳凰三山も向かい側に見えるはずの北岳をはじめとした白峰三山なども濃い霧の中に入ってしまいました。

写真は観音岳から薬師岳に向かう稜線上の景色です。
花崗岩が風化して砂のようになった地面と、むき出しのゴツゴツと切り立った岩稜、間に紅葉した木々の葉が重なり、美しいコントラストを見せていました。

濃い霧の中、一瞬見せるこの光景は逆にものすごく幻想的で、地蔵/観音/薬師 といった名前のついた訳が解る気がします。

コースタイム:2012年10月6日 晴〜一面ガスの中、単独山行
6:00 韮崎市・青木鉱泉の駐車場発 ~ ドンドコ沢を遡行するように山道を歩く 〜 7:15 南精進ヶ滝 ~ 8:25 白糸の滝(休憩10分) ~ 9:00 五色の滝(休憩15分) ~ 10:00 鳳凰小屋(休憩15分) ~ 11:00 赤抜沢ノ頭/地蔵岳(稜線上に上がる15分休憩) ~ 12:00 鳳凰小屋への分岐通過 ~ 12:25 観音岳山頂着(昼食)12:45発 ~ 13:05 薬師岳山頂(休憩25分) ~中道を下山開始 ~ 休憩を3回ほど取り ~ 16:15 小武川沿いの林道着 ~ (林道を青木鉱泉まで歩くが、ドンドコ沢が増水のため迂回) ~ 17:00 青木鉱泉の駐車場着

南アルプス/鳳凰三山・錦秋の地蔵岳 … WanderVogel2012/10/07

錦秋の地蔵岳
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昨日登った南アルプス/鳳凰三山のスナップ、もう1枚。

出発直後のドンドコ沢から見上げた鳳凰三山、うっすらとガスの掛かった遠景の稜線中央部にピョコッと飛び出した岩の頂が地蔵岳頂上のオベリスクで、観音岳、薬師岳と続く山々は稜線左側に連なっています。

オベリスク左下に雪渓のように白く広がっている斜面が「賽の河原」と呼ばれる花崗岩の風化した白砂の急斜面です。
ここは一歩進むごとにサラサラ(ザラザラ?)と砂に靴が埋まってしまい、非常に登りにくい!
ここを突き上げて鞍部(コル)まで登るのに、大変難儀をした箇所です。

カラッと晴れ渡っていれば、もっとクリアな視界が広がったのでしょうが、薄いガスがたなびく錦秋の風景もまた風情がありました。


ヒノキの人工林・調査実習 … 森林インストラクター・WanderVogel2012/10/08

理想的なヒノキの人工林
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昨日は県の森林インストラクター調査実習ということで、南足柄にある「21世紀の森」の人工林に行ってきました。

好ましい森林(人工林)の姿を確認し合い、数十年単位での森林管理のあり方について専門家を講師にした実地調査研修とレクチャーが丸一日行なわれました。

写真は斜面にあるヒノキの人工林ですが、植林してから31年経過した姿です。
直径26cm程度の太さで、高さ16mほどのヒノキが1ha当り800本残っている状況です。
その間に3〜4回の間伐/枝打ちがなされ、当初3,000本程度植林された苗木が31年経って800本程度まで間引きされたことになります。

ここは管理が行き届いていますので、健全な森林の姿を見せています。
小雨模様の日でしたが、森林全体に日の光が入り、ヒノキの高木の下には適度な低木、草本類が生えていて望ましい森の姿になっています。

地面にも小枝や葉が積もり、保水力を高めていると同時に土の流失もきちんと押さえる役割を果たしています。

丹沢の山の荒廃/前回Blog:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/26/

SR500と信州野沢温泉へ … バイクツーリング・WanderVogel2012/10/13

野沢温泉ツーリング
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毎年恒例のクラブ0B会主催、信州野沢温泉秋の親睦旅行です。

昨年は車で新潟/十日町経由で野沢温泉まで走りましたが、今年は何度目かのGHEZZI&BRIAN FURIA・YAMAHA SR500SPの2台でのツーリングとなりました。
このところ長距離を乗る機会がめっきり減ってしまったバイクですが、手をかけていない割にトラブル無し・絶好調で快調にエンジンを回すことが出来ました。

1日目(13日)は中央道を信州松代(まつしろ)まで走り、古い町並み散策をしてからの野沢温泉入りです。
(戸隠神社の奥社に行ってみよう、という計画もあったのですが、横浜から走るとけっこう遠くて、結局松代行きになりました。)

野沢温泉に着くとすぐに民宿近くの「中尾の湯」に直行し、まずは熱い温泉で身体の疲れをほぐします。
その夜の親睦会は、いつも通りに民宿の亭主を交えての酒盛りへと突入し、民宿の冷蔵庫の酒を空にして宴会終了となりました。

翌日(14日)の帰路は長野道から上信越道に入り、ユネスコ世界遺産リストに載せられた「富岡製糸場」を見学してきました。
幸い2日間とも晴天に恵まれ、気持ちの良い信州路を堪能することが出来ました。

・・・つづく
前回Blog:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/04/30/

信州松代(まつしろ)の水路のある町並み … 邸園/文化財保全・HM2012/10/14

信州松代の町並み
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写真は信州松代(まつしろ)町、佐久間象山の象山神社近くの武家屋敷町のスナップです。

黒く塗られた板塀と真っ白い漆喰壁のコントラストが美しく、路の両側に設けられた細い水路を流れるきれいな水の風情と共に、町の持つ豊かなデザイン性を特徴づけています。

真田邸や旧横田家住宅、松代藩文武学校など、見るべきものがたくさんある松代ですので、3時間程度の滞在時間ではまったく時間が足りませんでしたよ。


近代の歴史遺産としては、松代大本営移転地としての大地下壕があり、そのうちのひとつで 内部が公開されている「象山地下壕」と近くにある展示室に行ってきました。
9ヶ月間という短時間で、岩山に全長10kmもの大地下壕を掘ってしまう(過酷な)土木技術にも驚きましたが、ここに大本営指揮所初め政府の中枢機関や天皇の宮城を移設してこようという「切羽詰まった発想」にも驚かされます。

ただ、この国家あげての滑稽なほどの必死さ を見るとき、単に軍部による「天皇制国家体制の護持」ということだけではない、国として守りたかった別の何かがあったように思えてきます。

ここ松代は幸いなことに戦災を免れたこともあり、武家屋敷町を中心とした古い町並みが多く残されています。

戦後になって(ルール無しで)造られ続けた雑然とした(醜悪な)景観と違い、整然として静謐で凛とした町並みを見るとき「国家として守りたかった何か」を目に見えるかたちで表すと、こういうことなのかもしれないなあ、と何となく気付きました。

また行ってみたい町のひとつです。

・・・つづく

明治5年建設の上州富岡製糸場 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/15

上州富岡製糸場
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ユネスコ世界遺産リストに載せられた「富岡製糸場」を見てきました。

以前から気になっていましたので存在は知ってはいましたが、実際に見に行くのは始めてでした。

まずは、広大な敷地(約1万6千坪)に点在する、数多くの施設建物の大きさとその美しい姿に圧倒されます。
ずっと継続的に最近まで製糸工場として使われていたわけですから、その時代その時代に合わせて改造されているとしても、明治時代に建てられた主要な棟(繰糸場、繭倉庫、首長館、検査人館、社宅など)がそっくりそのまま、よくこのようなきれいな状態のまま残されていた、ということに改めて驚かされます。

造られたのは明治5年(1872年)ですが、この製糸工場建設を決めたのはその2年前の明治3年2月といいますから、戊辰戦争が函館で完全に終結してからわずか半年足らずの時期です。
また、ヨーロッパ諸国やアメリカ・ロシアなどの列強がアジア諸国を次々に植民地化していき、それに合わせて独立運動が激化していく時期にも重なります。

そのような世界情勢の中ですから、そうとう日本も近代化(富国強兵)を急がされる必要に迫られていたんだろうと、当時の指導者たちの“焦り”が想像できます。

日本国内にしても明治維新の後始末でゴタゴタがまだ納まっていない時期に、付け焼き刃的ではないこのような規模・技術で造り上げた国家の決断にも驚かされます。
当時、世界最大規模の製糸工場だったというからまったく驚きです。

技術指導と建物の設計者はフランス人(ポール・ブリュナ、オーギュスト・バスティアン)ですが、当時の日本にはレンガを焼く工場もありません、ガラスも国産では大量に作ることなど出来ませんし、建築で使うような鉄鋼部材にしても本格的な精錬工場が稼働するのはまだ先の時期です。
ですので、当時の日本の大工や石工、瓦職人らと一緒に 構法指導についても、使用資材の選定から調達についても(工期も設計期間も無いなか)大いに議論を戦わせながら実施に向かって突き進んで行ったのだろうと想像できます。
どうしても日本で作ることの出来ないもの(緊結用ボルト・ナット、スチールの窓枠、蝶番など)は、フランスから船で運んできたということです。

主要な建築物である「繰糸場」や「東西繭倉庫」の木骨構造は軸組(全ての柱が通し柱・杉柱)とボルト接合による合わせ梁で構成され、日本建築の特徴である仕口をまったく使っていません。

屋根は和小屋組みではなく、西洋的なトラス梁(松梁)を組み合わせることで幅12mの大スパンを飛ばすことを可能にしています。
これには当時の大工さんも大いに戸惑ったことが想像できます。

構造やディテールは完全に洋風ですが、面材となる流麗なフランス積みで積まれたレンガの壁は、セメント接着ではなく漆喰で接着されている点が日本風です。
解説によると、地震の多い日本でこの構造が現在まで崩れずに残っている要因のひとつは、レンガの接着/目地に日本古来の技術である漆喰(下仁田町の石灰が原料)を使った点にあるそうです。

レンガは瓦職人の手になるもので、近くの甘楽町に窯を作ってブリュナの指導のもとで焼き上げたといいます。

・・・つづく

信州松代・黄檗宗 象山恵明禅寺 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/17

信州松代 象山・恵明禅寺
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写真は象山神社近くの山裾に隠れるようにひっそりと建っている、真田家ゆかりの禅寺本堂の姿です。

山門前に立てられていた縁起書きを読むと、寺号は黄檗宗 象山恵明禅寺(ゾウザン エミョウ ゼンジ)といい、大本山は京都宇治にある隠然禅師開祖の黄檗山 萬福寺とあります。

佐久間象山の象山(ゾウザン)の名前(号)の由来になった禅寺だそうです。

黄檗二祖木庵禅師が開祖で延宝五年(1677年)に造営されましたが、文政八年(1825年)に山門などを除きほぼ全山が焼けてしまい、その後 天保四年(1833年)に現在の本堂や鐘楼、庫裏などが再建されたとあります。

最近になって新しい瓦で葺き直された、急勾配の屋根が本堂全体のプロポーションを引き締め、威風堂々とした印象を与えています。

ただし、良く屋根の軒先を観察すると、右側が左側に比べてわずかに下がっているのが写真でも解ります。
調べてみると、最近屋根を修復した際に、本瓦は葺き替えることは出来たのだが、屋根の傾きまでは完全修復できなかったようです。

屋根の上には、六文銭の印のある青海波文様の棟が乗り、棟の両端には瓦で出来た立派な鯱(シャチホコ)が威厳のある姿を見せています。

普通ですと冠(カンムリ)瓦(雁振(ガンブリ)瓦)と熨斗(ノシ)瓦とを組み合わせた棟が一般的ですが、丸瓦(冠瓦)と白い本漆喰で作られた棟の立上がりのデザインが大きな瓦屋根にアクセントを与えていて面白い。

*「シャチホコ」は「鯱」をかたどった「鉾」という意味で、お城の天守閣の屋根に乗っているあの棟飾りです。
「鯱(シャチ)」というのは、白黒模様のほ乳類のあのシャチのことではなく、海の底に住むとされる想像上の生き物のことです。
鯱が水に住むことから、火災除けの意味を込めて棟に乗せられるようになりました。
狛犬やシーサーやお狐様同様に、二対の鯱は阿吽の姿をしていて雄雌になっています。

・・・つづく

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