三渓園・鶴翔閣で行なわれた正月神事「包丁式」 … WanderVogel ― 2013/01/02
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横浜市本牧の三渓園の中に建つ「鶴翔閣」では正月三箇日に内部特別公開と合わせて、お正月らしい催し物があります。
元日は「お琴の演奏会」、二日目は「包丁式」、三日目は「新作能」という具合に特別な催し物が開催されます。
今日の「包丁式」に合わせて、三渓園に行ってきました。
冬晴れで気温も上がってきて、(風はすごく強かったのですが)室内では暑いくらいの陽気でした。
TVや本では見たことのあった「包丁式」ですが、間近で見る機会は今までありませんでしたから、大変興味深く拝見させてもらいました。
奉納される 魚(真鯛)に一切手を触れること無く、作法に則った「型」を見せていきながらきれいに捌いていく、という平安時代から受け継がれてきている「神事」なのだそうです。
森羅万象、生きとし生けるもの全てに「神」を見いだし、敬う心を「神事」という姿で表現し受け継いでいくという素晴らしい「日本人の心」を見せてもらいました。
せっかく行ったのですから、もちろん冬空の下に建つ美しい古建物群も堪能してきました。
新緑の春や初秋のころの周りを囲む山々やお庭の佇まいも情緒があって艶やかで美しいものですが、この時期の冬枯れて葉を全て落とした木々の中に建つ「古建築」の姿もまた凛として清廉な美しさがありました。
以前のBlog(鶴翔閣):http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/12/
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横浜市本牧の三渓園の中に建つ「鶴翔閣」では正月三箇日に内部特別公開と合わせて、お正月らしい催し物があります。
元日は「お琴の演奏会」、二日目は「包丁式」、三日目は「新作能」という具合に特別な催し物が開催されます。
今日の「包丁式」に合わせて、三渓園に行ってきました。
冬晴れで気温も上がってきて、(風はすごく強かったのですが)室内では暑いくらいの陽気でした。
TVや本では見たことのあった「包丁式」ですが、間近で見る機会は今までありませんでしたから、大変興味深く拝見させてもらいました。
奉納される 魚(真鯛)に一切手を触れること無く、作法に則った「型」を見せていきながらきれいに捌いていく、という平安時代から受け継がれてきている「神事」なのだそうです。
森羅万象、生きとし生けるもの全てに「神」を見いだし、敬う心を「神事」という姿で表現し受け継いでいくという素晴らしい「日本人の心」を見せてもらいました。
せっかく行ったのですから、もちろん冬空の下に建つ美しい古建物群も堪能してきました。
新緑の春や初秋のころの周りを囲む山々やお庭の佇まいも情緒があって艶やかで美しいものですが、この時期の冬枯れて葉を全て落とした木々の中に建つ「古建築」の姿もまた凛として清廉な美しさがありました。
以前のBlog(鶴翔閣):http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/12/
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冬枯れた三渓園臨春閣もまた良い … 建築の旅・WanderVogel ― 2013/01/08
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先日「包丁式」を見に行った三渓園で撮った1枚の写真。
三渓が収集し、三渓園に移築した数々の名建築の中でも、この臨春閣は素晴らしい。
西 和夫先生の著書「三渓園の建築と原三渓」のなかで、「三渓園の建物の白眉、それは臨春閣と聴秋閣、このふたつであろう。」「移築して三渓は、春に臨む建物 - 臨春閣と、秋に耳を澄ませて聴く - 聴秋閣、と名付けた。実に風流な名である。」と書いています。
臨春閣は一部を「釣殿」のように池に向かって飛び出すように雁行して建つ三棟の建物から成り立っていて、玄関から入って一番奥の三棟目だけが二階建てで、あとは平屋という造りになっています。
屋根は檜皮(ヒワダ)葺きで、庇の屋根だけは杮(コケラ)葺きで葺かれた数寄屋風書院造りをしています。
古建築を購入し移築した三渓自身は、この建物が桃山御殿(秀吉の建てた聚楽第)の一部と信じていたようで、建物の来歴についてはその後様々な学者、建築史家(藤岡通夫教授の巌出御殿説)が研究を重ねた仮説を立てていったようです。
(そのあたりは、上記の書籍に詳しい)
現在では大阪の春日出新田会所 - 八州軒という建物を移築したもの、というのが定説のようです。
といったように、この三渓園の建物群はその建物の素晴らしさ、配置の妙、四季それぞれの邸園の風情の巧妙さに加えて、それぞれの建物の持つ歴史をひも解くというミステリアスな楽しみがあります。
春の特別公開1:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/05/04/
春の特別公開2:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/05/05/
夏の特別公開1:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/12/
夏の特別公開2:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/13/
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先日「包丁式」を見に行った三渓園で撮った1枚の写真。
三渓が収集し、三渓園に移築した数々の名建築の中でも、この臨春閣は素晴らしい。
西 和夫先生の著書「三渓園の建築と原三渓」のなかで、「三渓園の建物の白眉、それは臨春閣と聴秋閣、このふたつであろう。」「移築して三渓は、春に臨む建物 - 臨春閣と、秋に耳を澄ませて聴く - 聴秋閣、と名付けた。実に風流な名である。」と書いています。
臨春閣は一部を「釣殿」のように池に向かって飛び出すように雁行して建つ三棟の建物から成り立っていて、玄関から入って一番奥の三棟目だけが二階建てで、あとは平屋という造りになっています。
屋根は檜皮(ヒワダ)葺きで、庇の屋根だけは杮(コケラ)葺きで葺かれた数寄屋風書院造りをしています。
古建築を購入し移築した三渓自身は、この建物が桃山御殿(秀吉の建てた聚楽第)の一部と信じていたようで、建物の来歴についてはその後様々な学者、建築史家(藤岡通夫教授の巌出御殿説)が研究を重ねた仮説を立てていったようです。
(そのあたりは、上記の書籍に詳しい)
現在では大阪の春日出新田会所 - 八州軒という建物を移築したもの、というのが定説のようです。
といったように、この三渓園の建物群はその建物の素晴らしさ、配置の妙、四季それぞれの邸園の風情の巧妙さに加えて、それぞれの建物の持つ歴史をひも解くというミステリアスな楽しみがあります。
春の特別公開1:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/05/04/
春の特別公開2:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/05/05/
夏の特別公開1:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/12/
夏の特別公開2:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/08/13/
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小田原・板橋地区の町並み散策 … HM・建築の旅・WanderVogel ― 2013/01/20
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風邪をおしてHM講習の一環として、小田原・板橋地区の町並み散策に出掛けた。
小田原はお城とかまぼこ、干物が有名で、かえってそれ以外思い浮かばない人も多いかと思いますが、城下町であり東海道の宿場町として栄えたところであるとともに、明治期に入ると有数の保養地として注目されるようになり、多くの別荘/別邸がつくられるようになります。
明治34年(1901)に元の小田原城が御用邸として整備されたのをきっかけに、皇族方や軍人/政治家、財界人たちが次々に別荘を構えることになります。
そのころに、箱根から続く尾根の斜面に沿って造られた山縣有朋や三井財閥を支えた益田孝らの別荘/別邸には、日本を代表する茶人らが集まり、小田原は「茶の湯総本山」と言われたほど文化的にも重要な地であったといいます。
写真は板橋地区の旧東海道に面して建つ明治36年に造られた「旧内野家住宅」です。
醤油製造業兼店舗として使われていた店舗併用住宅で、当時流行した東京/川越などに残る「関東型土蔵造り」で造られています。
(この建物は小田原市の歴史的風致形成建造物指定候補になっている)
今、全国でこうした、国宝とまでは言えないが(おじいちゃん/おばあちゃんの時代までは普通の風景であった)古い町並みや地域の佇まいを民間の歴史的遺産として守っていこうという機運が高まってきています。
ただ、こうした取り組みは個人や地域ボランティアのレベルでは限界があるのも事実で、市や県/国の支援体制が整わないとあっという間に消えていってしまうものです。
公的予算削減の世の中の動きの中で、行政が必要な予算を付けるのは高いハードルであることは解りますが、経済対策と称してスクラップアンドビルドの再開発事業に予算を付けるより、こういう当たり前の風景でありかつ貴重な地域文化遺産を守っていくことの方が「国」レベルで考えたとき、重要な施策なのだと思うのだが…
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風邪をおしてHM講習の一環として、小田原・板橋地区の町並み散策に出掛けた。
小田原はお城とかまぼこ、干物が有名で、かえってそれ以外思い浮かばない人も多いかと思いますが、城下町であり東海道の宿場町として栄えたところであるとともに、明治期に入ると有数の保養地として注目されるようになり、多くの別荘/別邸がつくられるようになります。
明治34年(1901)に元の小田原城が御用邸として整備されたのをきっかけに、皇族方や軍人/政治家、財界人たちが次々に別荘を構えることになります。
そのころに、箱根から続く尾根の斜面に沿って造られた山縣有朋や三井財閥を支えた益田孝らの別荘/別邸には、日本を代表する茶人らが集まり、小田原は「茶の湯総本山」と言われたほど文化的にも重要な地であったといいます。
写真は板橋地区の旧東海道に面して建つ明治36年に造られた「旧内野家住宅」です。
醤油製造業兼店舗として使われていた店舗併用住宅で、当時流行した東京/川越などに残る「関東型土蔵造り」で造られています。
(この建物は小田原市の歴史的風致形成建造物指定候補になっている)
今、全国でこうした、国宝とまでは言えないが(おじいちゃん/おばあちゃんの時代までは普通の風景であった)古い町並みや地域の佇まいを民間の歴史的遺産として守っていこうという機運が高まってきています。
ただ、こうした取り組みは個人や地域ボランティアのレベルでは限界があるのも事実で、市や県/国の支援体制が整わないとあっという間に消えていってしまうものです。
公的予算削減の世の中の動きの中で、行政が必要な予算を付けるのは高いハードルであることは解りますが、経済対策と称してスクラップアンドビルドの再開発事業に予算を付けるより、こういう当たり前の風景でありかつ貴重な地域文化遺産を守っていくことの方が「国」レベルで考えたとき、重要な施策なのだと思うのだが…
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