横浜山手に関東大震災後に建てられた洋風住宅の修復見学会 … 建築散策・WanderVogel2014/03/29

オリジナル部材
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神奈川県や横浜市内に戦前戦後に建てられた洋館付き住宅の研究・修復活動をしている会の案内で、「歴史的建造物保存修復関係者向け見学会」に参加してきました。

横浜山手の山手68番館(横浜市認定歴史建造物)の外部改修工事を今ちょうどしているところで、その外壁仕上げの修復工事について設計担当者や行政担当者、工事業者(大工さんや左官屋さん)の解説を聞きながら、見学会及び実際の仕上げ作業の体験などをしてきたというわけです。

この建物は1923年(大正12年)9月1日に起きた「関東大震災」後に建てられた、いわゆる「洋風住宅」というデザインを持った建物で、築造年は正確には解っていないようなのですが、だいたい昭和初期に造られたものだとされています。

関東大震災の被害は横浜でも甚大で、幕末の外国人居留地時代から明治・大正時代初めにかけて横浜山手地区を中心に建てられていた全ての建物・構造物が灰燼に帰したと言われています。

ただ、外国人居留地の性格はその後もこの地に引き継がれ、震災復興で真っ先に建てられたのは同じようなプラン・デザインを持つ洋風住宅であったといわれていて、そのなかの80棟近くが横浜・山手地区には今も現存しています。

このあたりは大東亜戦争末期の米軍の横浜大空襲に際しても、占領後の接収を考慮して焼夷弾を落とさなかった地域ですので、今でも残っている建物が多いのです。

直ぐ近くにある本牧三渓園も本格的な爆撃は免れたとは言いますが、それでも数多くの1t爆弾が敷地内に落ちて地面は穴だらけであったといいますから(三渓園の場合は、重要な建物は解体して、防空壕内に避難させていたので焼失を免れました。)、ほとんど木造住宅が占めている当時の山手地区を米軍は意図的にきちんと爆撃ターゲットから外していたことが解ります。

米軍接収時でもそうですし、それ以外でも住人が変わるたびに少しずつ手を加えられた建物が多いですので、今回のような改修(+耐震補強)工事に際しても、もともとのオリジナルの仕上げや色の判別がなかなか難しかったと言います。

窓枠に塗られたペンキを剥がすと何層にも塗られた色が出てきたようですし、ダンロのタイルなどにもかまわずにペンキが塗られていたようですので、修復と一口でいっても老築化した箇所や腐食した部材を取り替えるだけというわけではありません。

写真は一部解体時に出てきた金物やレンガ、モルタルの破片、昔の構造金物などですが、屋根瓦(セメント瓦)に関しては庭を掘削中に出てきたものだそうで、これが竣工時に葺かれていた瓦ではないかと解説されていました。(ちなみに、今の屋根はカラーベストコロニアルで葺かれています。)

建物の窓は全て木製の窓で、はめ殺し窓と上下にスライドする上げ下げ窓が付いています。窓枠は緑色に塗られていたようです。

外壁はこの時代に造られた木造洋風住宅に共通している「モルタル掃き付け仕上げ」がオリジナルだそうです。改修前はそのモルタルの上に(いつの時代にかに)ウレタン塗装・弾性タイルが吹付けられていたそうですので、住民は雨漏りにかなり悩まされてきたことが想像出来ます。

体験実習では当時の「モルタル掃き付け仕上げ」の施工方法での掃き付け体験をしましたが、これを昔の職人さんは手作業でしていたのですから、なかなか辛抱強い仕事です。
今は全て手作業というわけにはいきませんので、モルタル吹付けガンによる施工方法で作業を行っていました。
・・・不定期に つづく・・・

横浜/根岸 間門の家:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/01/09/

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