旅の仕方について/街道の旅は万国共通? … 旅・WanderVogel2014/12/10

ネパールヒマールの村
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昨日のつづき… のような話し

写真は昨日の村の中を通るメインストリートを撮ったものだ。道の両脇には飯屋兼宿屋(バッティ)、商店や荷捌き場、仏教寺院などが立ち並んでいる。

建物の外壁の三方は、河岸から採取してきた岩石を平たく成形し、積んだだけの組石造・壁構造になってる。(大きな地震が来れば、横揺れ一発で倒壊しそうな造り方だ)

正面の開口部周りと屋根構造下地にはこの辺りでは貴重な木材を柱や梁に使った木構造になっていて、全体としては木と組石との棍構造になっている。
雨が降ることがあまりない気候なので、ほぼ水平に掛けられた梁・桁の屋根下地にそのまま石材を葺いている。

上の写真の路の左奥に薪が積んであるのがみえるが、周辺の山々から苦労してなんとか集めてきたものだろう。

暖房や煮炊きに使う熱源はこういった薪や粗朶に頼るしかないので、村の周辺の低い山々は木が生えていなくてさびしい姿になっている。
昨日の写真を見ても分かるように、切り出せそうにない急勾配の山肌にはかろうじて樹木が残っているが、基本的にはハゲ山化している姿が目につく。

標高的には森林限界ギリギリといっても、草木や樹木がまったく生育出来ないというわけではないのだが、結局は熱源の全てをバイオマスエネルギーに頼るしかないので、植林しても追いつかないというのが正直なところか。


ネパールヒマールの街道を歩く旅の仕方は、日本で言えば江戸時代の中山道(木曾街道)や北国街道の山奥を旅するのと同じような感覚だろうと思う。

中山道(木曾街道)で比較してみると、各宿場間は約二里くらい(最大でも五里)でつなげられているようで、今で言うと8kmくらいごとに宿場がある計算になる。(正確には、一里は三十六町で、約3,927mになる)
ざっくりと、2時間ごとに休憩を挟めるように宿場が配置されていたという感覚だろうか。

それぞれの宿場内には多いところで(本陣や脇本陣を除いて)30~40軒の旅籠があり、木曾の山中に入っても10軒~20軒程度の旅籠はあったようだ。ちなみに、有名な妻籠宿では31軒、馬籠宿では18軒の旅籠があったと記されている。
妻籠宿から馬籠宿までは、ちょうど二里(8km)の距離にある。

日本の江戸時代の旅の仕方を考えると(もちろん徒歩での旅ということだが)、夜明け前に泊まっていた旅籠(宿場)を出立し、日が暮れる前には次の宿泊地に着いているわけですので、8時間から10時間(春から夏の間)は歩ける計算になる。
ということは、普通に歩いて一日 八里程度(30km~40km/日)は歩いたのだろうから、昔の人はみな健脚だったのだろうな。もちろん平地での話しではあるが。


ネパールヒマールの街道でもだいたい同じようなスケール感で、宿場となる村々がヒマール街道に沿って点在している。
街道はどのルートでもそれぞれその渓谷に沿ってうまく付けられていて、河を渡河する箇所にはアクロバチックな吊り橋や、荷物を満載したヤクやロバが通行するメインの街道沿いではキャンティレバーの美しい木の橋などが掛けられている。

ヒマラヤを流れる河はどこもかなり急流で、水量も多く渓谷も深く狭いので、日本のように河を直接歩いて渡河するとか渡し船があったりすることはない。

また、山塊をまたいで街道が延びている箇所ではコルを(鞍部・峠)乗っ越すことになるのだが、ヒマラヤでは峠を越えると言ってもその峠の標高が4,000m~6,000mと、日本(馬籠峠で801m、碓氷峠で960m)とは比較にならないくらいの高地であることも大きな特徴だ。

ネパールヒマールを越えてチベット高原とインド亜大陸とをつなぐ隊商(キャラバン)の主な交易品は、一昔前までは主にチベット高原で産出される良質な岩塩(ヒマラヤ岩塩)だということを聞いたことがある。
その他にもインドで採れる米や穀物、チベット高原で採れる鉱物(宝石)や毛皮などの産品が盛んに行き来していたのだろう。

宿屋では昨日書いたように(1970代後半までは)、夕飯と朝飯を食べれば宿泊代は掛からなかった。
部屋に置かれたベット(インドやパキスタンでおなじみの木の枠に縄を編んで作られたベット:チャールポイ:Charpoy)で寝ることになるのだが、寝具は自分で持っていることが前提条件である。標高が高い分だけ、夜はかなり冷え込む。

頼めば毛布(のようなもの)を貸してくれるが、(たしか)別途料金が掛かったのと南京虫や蚤の問題など、いろんな面でちょっと危険…、、まぁ、風邪をひくよりはマシかもしれんが。


その頃(1970代後半)はミネラルウォーターといったシャレたものは山ではお目にかかれなかったので、水分補給は必ず沸騰したお湯か熱いチャイということになる。
なので、村に入ると必ずチャイ屋に立ち寄り1杯、2杯とチャイを飲むことになる。

4,000mを越える高地を歩き続けるには、喉が渇いていてもいなくても水分補給は絶対に欠かせない。これは高山病にかからない唯一の方法だと僕は今でも思っている。

街道の村や宿(バッティ)は日本とほぼ同様に2時間ごとに現れる感じで、休憩や食事にちょうどいい具合に時間配分されていて、これも昔の街道整備の知恵なんだろうと感心するとともに、たどり着いた村のチャイ屋で飲む1杯のチャイ(甘いミルクティー)は旅人にとってかなりありがたい存在だと実感した。
チャイはインドでは水牛の乳を使うが、ネパールの高地ではヤクの乳に変わる。

もっとも、チベット族オンリーの村に入っていくと、ミルクティーがグルグル茶(バター茶、磚茶)になるので、このお茶は正直「ありがたい!」とは言い難い。
そうはいっても贅沢は言えないので、結局なんだかんだ言ってもこの塩味のヤクのバター茶を飲むのではあるが…


その後何度か行っているヒマラヤトレッキングでは、かなり高地に行っても宿泊した宿や村の店でミネラルウォーターを手に入れることが出来るようになったのはうれしいこと。
高山病予防はだいぶ楽になった。

ヤクとテントとバター茶:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/11/20/

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