冬の山でのんびり・西丹沢/水の木沢を歩く … 山歩き・WanderVogel2015/02/01

水の木沢を歩く 2月1日
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西丹沢、世附川上流部「水の木沢」を歩いて来ました。

丹沢湖西端の浅瀬に着いた時はすでに日が昇っていて、気温は氷点下ですが陽射しが気持ちが良かった。
今日は西丹沢の西端に位置する水の木沢を目指して、世附川沿いの林道を歩きます。

朝の雪道はバリバリに凍っていますが、シカやカモシカの足跡をたどるように冷えきった静かな山道を歩きます。

ここはフライフィッシングでは何度も来ている沢ですが、雪の積もっている2月に沢に降りるのは始めてかもしれません。
この時期にこんな辺鄙なところを歩く人など絶対にいませんから、山も沢も独り占めです。

沢の水は冷たく空気は澄みきっていて、流れる水音も冷たい大気に溶け込んでいくようです。
時々 ここは!と思われる流れの淵や瀬を覗き込むのですが、渓魚の姿は見ることが出来ませんでした。
これだけ水が冷えきっていれば、ヒラキには出て来れないんでしょうね。たぶん、白泡のたつ深い流れの下にジッと潜んでいるのでしょう。
ひと月後の3月1日(日曜日!)がこの辺りの渓流釣りの解禁日です。すでに年券は買ってあります。


沢沿いをのんびり歩いて、沢の水でお湯を沸かしてお茶を飲みます。
今日の目的はこれだけです。これだけのために、車止めから3時間歩いて来ました。


今日は渓流解禁に向けての沢の下見も兼ねているのですが、一番心配だった林道の復旧具合の確認が出来たことが良かった。
崩落した林道の完全復旧にはまだほど遠いですが、確実に毎年作業は進んでいます。
大きな崩落箇所の本格復旧はこれからですが、細かい土砂崩れ箇所の修復はすでに終っている感じです。

浅瀬のゲートに設けられている渓流釣りのチェックポイントには、大水で流されて以来 事実上実施がストップしているC&R(キャッチアンドリリース)区間の案内看板が復活していたが、今期からC&Rは実施されるのでしょうか? 特にそれについてのアナウンスはなかったのだが…

コースタイム:
世附/浅瀬集落駐車場8:40 ~ 水の木橋 10:40 ~ 菰釣橋 11:10 ~ 大洞橋(馬頭観音の碑)11:30 ~ 昼食 ~ (馬頭観音の碑)12:15出発 ~ 浅瀬駐車場着 14:15

前回の古道巡り:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/12/30/

西丹沢の古道/杣道の跡を偲ぶ・馬頭観音 … 山歩き・WanderVogel2015/02/02

西丹沢水の木沢の馬頭観音
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昨日の西丹沢、世附川上流部「水の木沢」遡行の続きです。

世附川沿いに走る「水の木林道」や大又沢沿いに走る「大叉沢林道」の本来の目的は、西丹沢の木材を切り出すための林業作業道でした。(今でももちろんそうですが。)
この林道、実は昭和9年から昭和41年にかけては「世附森林鉄道」という材木切り出し/運搬用の軌道が通っていたところです。
軌道が廃止され、そこを改修(レールや軌道施設を撤去)して、車が通れるように作られたのが今の「水の木林道」「大叉沢林道」になります。
丹沢湖(三保ダム:1978年(昭和53年)完成のロックフィルダム)が出来るずっとずっと前の話しです。


軌道が引かれるまではもっと山の中の尾根や鞍部(峠)を結んで、山北集落と山中湖(旧平野村など)をつなぐ杣道・古道が通っていて、様々な物資(用材、薪や炭、生活必需品など)が馬の背に載せられてその山道を行き来していました。

日本では昔から、街道にせよ生活の道にせよ、山を結んで付けられることが多く、沢沿いに歩くことはあまりありませんでした。
欧米人はよく「日本の川は滝のようだ」と言いますが、十数年前の中川川(同じく丹沢湖の注ぐ支流のひとつ)の氾濫でも記憶されているように、日本の川の多くは大雨が降るたびに氾濫を繰り返して来ました。

ですので、日頃使われる道(街道も山道も)というのは山の尾根やその間にある鞍部をうまくつないで、山の弱点を突くようにして「道」が付けられていました。
山の斜面や鞍部に付けられた山道は相当な傾斜がありましたが、いつ氾濫して崩れるか解らないような川沿い・沢沿いに道を作るよりもよほど安全だったのです。

丹沢の山道の運搬には主に馬(駄馬)が活躍していしましたが、急斜面などでは人の引くソリや人の背も使われました。

東北地方では馬よりも牛の方が狭くて急な傾斜でも難なく登り降りが出来るのことから、主に荷役には牛が使われていた、と聴いたことがありますが、西丹沢では馬が主流だったのでしょう。


西丹沢の古道・杣道にはいくつかのルートがありますが、丹沢湖以西では「道」は山中湖(旧平野部落など)方面あるいは駿河小山あたりと密接につながっていたようです。
昔はこの辺りの山(世附山と呼ばれていたようですが)は、山北とのつながりよりも(今の静岡県側の)山中湖周辺の部落とのつながりの方が濃かったということなのでしょう。

世附川を浅瀬の集落から少し遡った大叉沢出合付近で対岸(右岸側)に渡り、目の前の尾根に突き上げると静岡県との県境「世附峠」に出ます。
世附峠をそのまま南へ下ると柳島を経て、駿河小山へと出ることが出来ます。
また、世附峠から稜線上に西に進むと「明神峠」「三国峠」を経由し、山中湖(旧平野村)へと下っていきます。

世附川を流れに沿ってさらに遡っていくと、沢はやがて大棚沢と本谷に分かれます。
右岸側から流れ込んでくる大棚沢を遡れば「切通峠」に至り、同じく山中湖(平野)へと下って行くことが出来ます。この古道は山北の集落と山中湖(旧平野村)をつなぐメインの古道・杣道だったようです。

本谷は菰釣橋付近でさらに金山沢と水の木沢に分かれます。
右岸側から合流する金山沢を遡れば、大棚ノ頭に突き上げて山伏峠に至ります。また、水の木沢を遡れば、大栂や菰釣山(こもつるしやま:1379m)に至ります。
そこを越えれば道志方面へと出ることが出来ます。

その水の木沢と金山沢の合流する地点(水の木集落・馬印)で、「織戸峠」から下ってくる杣道・古道と合流するのですが、以前あった橋(吊り橋?軌道の橋?)はずいぶん昔に崩落してしまったのでしょう。橋脚らしき石組みの基壇だけが苔生してわずかに残されているのが見えます。

この古道は古来より、山北の集落と山中湖(平野)をつなぐメインの道で、山を越えて(中川川右岸から二本杉峠を越えて?)大又沢に入り、そこから法行沢、上法行沢と遡り織戸峠を通って水の木集落へと下る杣道でした。

その古道跡に「馬頭観音」(奥)と小さな像の置かれたお墓(手前)が立っています。
山中湖村(平野部落など)の人々が、駄賃稼ぎのために使った馬の供養のために建立したものだと思われます。
古い資料の中に、昭和の初めにこの近辺でも盛んに馬頭観音が祀られた、と言う記述があったので、もしかするとそのころのものなのかもしれません。

西丹沢の山中にはたくさんの古道・杣道、峠道があって、その要所要所には「馬頭観音」が祀られています。


この西丹沢を舞台として、天保12年(1841年)に「国境押領出入」として有名?な、相州(そうしゅう:相模の国:今の神奈川県)と駿州(すんしゅう:駿河の国:今の静岡県)の6ヶ村18名を相手に甲州(こうしゅう:甲斐の国:今の山梨県)平野村(今の山中湖村)名主勝之進が訴訟人となって、当時の中央政府(幕府)に告訴した事件「相甲国境紛争」が起きるほど、山の資源に恵まれた山域だったのですね。
終結まで6年の歳月を要したというこの裁判により、現在の神奈川県・静岡県・山梨県の県境が始めて確定したという、歴史的な裁判結果だったといいます。

西丹沢の渓流や古道をたくさん歩いてみると、この地域の歴史的なことや周辺とのつながり、昔の杣人の暮らしぶり、交易などでの人の行き来についていっそう興味がわいて来ます。

山では人の方が観察されているんじゃないのか? … 山歩き・WanderVogel2015/02/03

世附川のカモシカ
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一昨日の西丹沢、世附川上流部「水の木沢」遡行の続き2です。

鋪装されていない林道はケモノも歩きます。シカもカモシカもタヌキも歩きます。(どきどき猟犬も、)
彼らの付けた足跡を楽しみながら歩いていると、足跡の本人が現れました。メスのカモシカです。たぶん!

ニホンカモシカは国の天然記念物ですから、深山幽谷に棲む幻の動物っぽい印象がありますが、西丹沢のひと気のない山裾ではけっこう頻繁に現れます。
実際、この時期(狩猟シーズン)でしたら、ニホンジカよりも良く目にするほどです。

西丹沢は野生動物などの鳥獣保護区と猟区が混在しています。
山梨県、静岡県などとの県境付近西側一帯は鳥獣保護区なのですが、その他は「世附猟区(土日・祝日のみ狩猟が可能)」として区分がされていて、許可さえ受ければ(狩猟獣として指定されている)ニホンジカを狩猟することが可能です。
ですので、この期間の土日に林道を歩いていると、たまに遠くの方で鉄砲の発射音が聴こえて来ます。
ニホンジカもそれを知っているのでしょうね、この時期にはめったに姿を見せることはありません。
時おり、シカの警戒音(短く甲高い声でピィーッ、と鳴く)だけが谷間に響きます。


カモシカはウシの仲間ですので、シカのように毎年角が生え変わることもありませんし、メスもオスと同じように短い角を持っています。
ですから、オスとメスの違いは顔つきで判断?するしかありません。(カモシカの専門家でしたら、詳細に雄雌を判断する方法を知っているのかもしれませんが…)

このカモシカは(僕の見立てでは)若いが成熟したメスと見ましたが、どうでしょう? 本当のところはわかりませんけど、、僕を見つめる眼差しが妙に色っぽく感じました。

人間のオスの僕に興味津々のご様子で、盛んにこちらを気にしています。
このような体勢で、10分もそれ以上も見つめ合ったままです。距離は5mと離れていませんが、少し高低差があるためか、当のカモシカは落ち着いたままジッと僕を見つめています。
見つめられ過ぎて、僕の方こそ気恥ずかしくなってきます。


周りの雪面上には、カモシカの歩き回ったヒズメの跡がたくさんスタンプされています。
一見するとカモシカの足跡とシカの足跡は非常に良く似ていて、それだけを見てもどれがどれだか確定することは私には出来ません。
でも、こうやって近くに当のカモシカがいるのですから、彼女の足跡には間違いないでしょうね。まあ、他のも混じっているのでしょうけど。


雪の上に残された足跡(フットプリント)は、動物の糞などと同じようにフィールドサインの観察にはうってつけです。
雪面にはその他にも、タヌキらしき足跡やテンらしき小さな足跡、ノウサギの跳ね歩いた跡など いくつか見ることができます。

タヌキ(だと思われる)の足跡に関しては、その上から人の足跡が重なって付いているため、もしかすると猟師の連れている猟犬の足跡かもしれませんね。
タヌキ、キツネ、イヌの足跡はこれまた良く似ていて、周りに糞など他のフィールドサインが落ちていないと、これ!っと特定するのはけっこう難しい。

冬の低山歩き・杣道歩きは楽しい発見と出合いでいっぱいです。

フィールドサイン観察ガイド:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2015/01/20/

ピークハントにこだわらない山歩きで見えてくるもの … 山歩き・WanderVogel2015/02/04

冬の渓流脇でお茶を沸かす
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ピークハントにこだわらない山歩きの楽しさ・面白さと、そこから見えてくるもの。

ピークを目指さない「ロングトレイル」という言葉を日本に広めたのは、「ジョン・ミューア・トレイルを行く」という本を書いた加藤則芳氏だと思っていますが、実はもっと前から日本にはロングトレイルという概念は存在していたんじゃないかとも思っている。

1970年代から整備が始まった「長距離自然歩道」がそれですが、当時の環境庁が主体となって、北は北海道から南は九州まで総延長21,000kmにおよぶ壮大なロングトレイルルートが計画されました。
最初に作られたのは、今ではなんだか懐かしい呼び方になってしまいましたが、関東圏に設定された「東海自然歩道」です。

ただ、この自然歩道は今ではあまり機能していないような悲しい状況になっています。整備が追いついていない箇所が多々あり、荒れ果てているところも多く見られます。
一部では薮や倒木で道でふさがれてしまっていたり、路肩が崩れて道が荒廃していたり、ルート表示看板などは腐って倒れていたり、と、お世辞にも整備されているとは言えない状況が目に付きます。
これには、運営システム上の問題も指摘されています。
「長距離自然歩道」自体の計画主体は環境庁だったのですが、その維持管理を各都道府県に任せっきり(丸投げ)にしてしまったことが、自然歩道の整備管理がうまく行っていない原因かと思われます。
(言ってみればお役所仕事と言うか、なんだか他でもありがちな構図です。)


ただ、自然歩道自体には大きな魅力もあります。昔からある旧街道や地元の集落同士を結んだ山道/峠道といった今まで利用されて来た「道」を使って付けられていることです。

丹沢の山中にも何本かの自然歩道が指定されています。
そのひとつは東丹沢を縦断する「関東ふれあいの道」で、蓑毛から大山阿夫利神社のある大山山麓を廻って丹沢山東側のルートを通り、仏果山を経由して津久井湖へと抜ける道です。
道はさらに高尾山方面へと延びています。

もうひとつは「東海自然歩道」で、西丹沢の丹沢湖から世附川を遡り、支流の大棚沢沿いに切通峠を経て山中湖(旧平野集落)方面へと抜ける道ですが、東海自然歩道は稜線に沿ってさらに道志村との県境尾根を菰釣山へと延びていて、白石峠・犬越路で中川川から来るもう1本の東海自然歩道ルートと合流します。
犬越路からさらに、姫次(東海自然歩道最高地点:1,433m)、黍殻山を経由し、道志川へ下ります。そこからさらに石老山へ登り返してねん坂、嵐山を経由して相模湖に下ります。
東海自然歩道はその後、神奈川県内の旧甲州街道上で唯一「本陣」の残っている小原宿を経由して、高尾山へと延びていきます。


神奈川県内には多くの「街道」「古道」があります。
有名なところでは主街道である東海道と、そこにつながる脇街道として、鎌倉街道、大山街道、地元金沢八景を通る金沢街道なども古道と言えるでしょう。
また、鎌倉時代に整備された足柄峠を通る足柄古道は、西丹沢の山北から静岡県の駿河小山,御殿場を越えて沼津,三島に抜ける東海道の間道(かんどう=脇道)として古くから利用されていました。

同じく鎌倉時代に整備された、金沢八景(六浦:むつら)と鎌倉を結ぶ朝比奈切通しをはじめ、鎌倉七口と呼ばれる七つの切通し(古道)が鎌倉の山中には今も残っています。


当時の大動脈と言うべき街道や古道には歴史的にも重要なエピソードがついて回りますが、そういった目立った歴史も無く、ひっそりとした山中に細く付けられた“杣道”にこそ、有名な街道にはない別の魅力があるものです。
山中の細い古道・峠道は山と集落、集落と集落とをつないだ部落民の生活の道でした。人や馬の背に載せた山の産物が盛んに行き来した村人の生活がそこから垣間見えて来ます。


西丹沢にも昔はたくさんの“杣道”が通っていました。時が流れ、いつしかそうした“道”は古道になり、今では通る人もいません。
今、そういう「道」をあらためて歩いてみると、自然石で組まれた少し崩れた石垣や山人の手で切り開かれたであろう素朴な切通しの跡など、今でもその痕跡を見ることができます。

沢沿いの少し広くなったところには、昔そこで人が暮らしたであろう生活の痕跡が残っています。炭焼き釜の跡や欠けた茶碗、小型の水力発電の機械部品なんかが錆びてころがっていたりして、その年代ごとの生活の跡を見ることができます。

峠の上や沢沿いのちょっとした広場には古い馬頭観音や山神様が祀られています。その前を行き来していた多くの人馬を見守ってきたのでしょう。

江戸時代から明治・大正・昭和の時代まで周辺集落で延々と引き継がれていた「杣稼ぎ・山稼ぎ」「駄賃附け」といった山での生活の一端を想像することが出来ます。

昔は確かに生活のための「道」だったものが、時代が過ぎてその意味を替えて今度はそれを楽しむ「道」に変わっていくとすれば、それはそれで意味のあることなんじゃないか。

なにより、昔の「山街道」や「杣道」を再認識して歩く、山の旅はホントに刺激的で楽しいものだ。

ヒマラヤの山旅 2:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/12/10/
ヒマラヤの山旅 1:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/12/09/

今年もまた、美しい渓魚との出合いに期待して … FF・WanderVogel2015/02/05

釣り年券2015
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今年はちゃんとシーズン前に年券を入手することが出来ました。
この年券は酒匂川漁協組合が発行するもので、もちろん酒匂川に注ぎ込む本支流河川での釣りでしか通用しません。

酒匂川水系の範囲はざっくりと言うと、丹沢湖に注ぐ全ての河川、鍋割山を源流とする河川がその範囲となり、ほぼ西丹沢山塊(甲相国境尾根、丹沢主稜)の南側全域一帯の広大な面積がその流域範囲に含まれます。

酒匂川に注ぐ主な河川は、東側から四十八瀬川(みくるべ)、中津川(やどりき)、狩川、皆瀬川、河内川(丹沢湖下流)、玄倉川、中川、世附川、といったところで、そのうち後半の3つの川が丹沢湖に注ぐ川になります。(というか、その3つの川の合流地点の集落を呑み込んで丹沢湖が作られた、と言うべきでしょうね。)


ヤビツ峠を越えた札掛にも中津川(札掛)という河川がありますが、その中津川は宮ヶ瀬湖に注ぐ相模川水系の河川ですので、同じ名前ですが全く別の川です。
当然、漁協も違うので、そちらで釣りをする場合にはまた別の釣り券が必要になります。
また、四十八瀬川(みくるべ)のすぐ東側を流れる水無川(秦野戸川)も同じ丹沢なので同じ水系に見えますが、水無川は金目川水系になりますので、また別になります。


僕が毎年入る川は、酒匂川水系の中でも一番ひと気の少ない辺鄙な(行きにくいということ)川である世附川のさらに奥の県境に近い、源流域の小さな沢が主なフィールドです。

世附川がひと気のない原因は(玄倉川同様に)、丹沢湖バックウォーター付近で一般車の通行を禁止しているため、アプローチが非常に悪いということにあります。
ということは、その分だけ入渓する人も少なくなってくる、というわけです。

同じく丹沢湖に注ぐ中川の場合は、中間に中川温泉というよく知られた温泉があるので、川の源流部近くまで川沿いに車道がしっかりと通っていて、釣り人にはアプローチのしやすい川となっていますが、その分釣り人も多いのではないかと思います。
上流域には自然教室などの県のビジターセンターもあって登山者も多い。
また、河原沿いには民間のオートキャンプ場などがいくつもあって、上流域に行っても山の渓流という趣きは残念ながら感じられない。

ただし、中川も支流に足を踏み入れると渓相を一変させ、大滝が多く、ゴルジュ帯もあり取り付きが難しい分だけ大きなサイズの渓魚が残っている可能性は高い。
実際、昨秋(釣りのシーズンが終わってから)中川の西沢にある“しもんたな沢”に沢歩きに出かけたのだが、ザイルが必要なほどのタイトな小滝の流れの中で良型のイワナが定位しているのを見ている。
しかしここは完全に沢登りで出かける沢だろうな。その時は上から降りて来たのでたどり着けたが、沢通しで遡行するには1人では危険すぎて安易に行く気にはなれないな。


さてさて、今年は何回行けるだろうか? はたして、年券の元が取れるのだろうか?

昨秋の西丹沢FF:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/09/16/

出張先の道の駅で見かけた魅力的な鉢植え … 自然観察・WanderVogel2015/02/06

イワヒバの鉢植え
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今日は日帰り出張で、新潟・南魚沼市の地域振興局に打合せに出かけて来ました。

当初、関東圏でも降雪が予想されていて、お天気ニュースでさんざん脅かされての出発となりましたが、関越道を走って北上するにつれて天気は快晴、幸先よい感じです。
午前中に役所前で施主側の責任者と待合せをし、私の作成した資料を元に地域振興局(昔の土木事務所)の建築担当と協議が始まりました。

法的に少しクエッションな部分があることは承知で、細かい法解釈よりも実際の避難・防災面での運用上の考え方を説明して今日の打合せは終了しました。
泊まりになると予想していましたが、とりあえずボールは投げてきましたので、あとは県側の結論を出してもらう、ということになりました。
用途変更に絡む法解釈や手続きというのは、新築と違い実際にはなかなか面倒なものがあります。
とまあ、仕事の話しはさておき。。


時間が余ったので近くの道の駅に立ち寄ったところ、建物外に設置している花台に変わった鉢植え(盆栽?)が数個 無造作に放置されているかのように置いてありました。
魚沼の冷たい風に晒されて乾燥し、葉っぱも縮こまってかわいそうなほど小さく丸まっていて、まるで枯れているかようです。

「イワヒバ」です。漢字で書くと岩檜葉と書きますが、イワマツ(岩松)とも呼ばれます。イワヒバ科に属するシダ植物の一種です。

写真のイワヒバは別に、枯れているわけではないんです。この姿はイワヒバ特有の冬の過ごし方で、簡単に言うと「冬眠」しているのです。
イワヒバはもともと土に根を張る植物ではなく、崖地や痩せた岩肌などに根を張って育ちます。育ちます、といっても、目に見えてはほとんど成長しません。
ある本には、30年経ってもほとんど成長しません、と書いてあるほどです。


この姿を見ると、盆栽や山野草の栽培を趣味としている人くらいしか興味をひかないのもうなずけます。「イワヒバ」は江戸時代から育てられている古典園芸植物に数えられるもののひとつなのだそうですから、きっとかなりマニアックでコアな園芸家、愛好家、好事家がいるのでしょう。


写真の鉢植え、岩に取り付いたイワヒバをよく見てみると、かたちも良くてなかなか立派に見えます。
イワヒバの愛好家でなくとも、建築を仕事にしている人や古民家好きな人なら、イワヒバときいてすぐに想像するのが「芝棟」のことでしょう。

茅葺き屋根には「芝棟」と呼ばれる棟仕舞いの方法があります。茅葺き屋根の頂点(棟)を固定・安定させるためにわざと根の張る植物を植えて、棟仕舞いとするのです。
この芝棟に使われるのが、イワヒバです。

そのほかにもイチハツ(アヤメ科)やアイリスやニラなど、根張りがよくて乾燥に強い植物が棟に植えられました。
ヨーロッパにも茅葺き屋根の民家はたくさんあって、フランス(ノルマンディー地方)の「芝棟」はイチハツがよく植えられています。

日本では、イワヒバを植えることも多いのですが、その姿を見るといかにも「日本の茅葺き民家」という風情を出しています。

芝棟について:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2013/12/02/

山上の農園(2月)・耕運機掛けと白菜の収穫 … 畑仕事・WanderVogel2015/02/07

2月の畑仕事と収穫
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2月に入って小雪が降ったり雨が降ったりとなかなか畑仕事が出来ないでいましたが、今日午後にやっと時間を作って農作業をしてきました。
昨日の出張が、泊まり掛けにならなかったのが幸いしました。良かったぁ〜。
畑に出てみると、周りにヒヨドリがたくさん飛び回って、ピィ~ヨ、ピィ~ヨ と騒がしく鳴いています。小鳥たちにとっては、この時期が一番エサのない時期なのかもしれないな。

今日は今までダイコンを植えてあった畑一面に耕運機を掛けて、雑草を始末して、整地までやってしました。
先月の中ごろに、植えてあったダイコンを全て引っこ抜いてそのままの状態で放置していたので、畑の様子がずっと気になっていました。

整地した後、ここにはジャガイモを植える予定です。前回はゴーヤとチシャとオクラ、シカクマメなどを植えていた場所ですから転作障害などの問題は起こらないでしょう。
植えるのはまだ先なのですが、整地だけはしておかないといかんせんみっともない。

この下の畑一面には11月に植えたスナップエンドウ、絹サヤ、そら豆たちが雪と寒風の中、順調に育っています。
そろそろ支柱を立てて、ツルが絡み付く棚を作ってあげないといけないだろう。

冬は収穫物が少ないですが、今日は白菜と小カブを鍋用に少し持って帰ります。
ついでに、畑の周りに自然と植わっている水仙の花を摘んで帰ります。たまには仏壇に花でも供えないとな。

1月の畑:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2015/01/19/

新潟出張の楽しみのひとつ「へぎそば」の魅力 … 食べ物・WanderVogel2015/02/08

塩沢の田畑屋さんのへぎそば
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一昨日の新潟での話し。
新潟・南魚沼への出張で、楽しみは何といっても「へぎそば」です。

へぎそばの名店は、塩沢・六日町、十日町市、土市、小千谷など魚沼一帯に点在していますが、その分布の共通点は実は伝統織物である麻織物にあります。

そういうと「何で?」思われるかもしれませんが、へぎそば(つなぎにふのりを使ったお蕎麦)の美味しい土地は越後縮、小千谷縮、越後上布などと呼ばれる、カラムシの草で織られた(平織りの)麻織物の生産が盛んであった土地とピタリと重なっています。

魚沼地域の麻織物(縮布)の歴史は古く、奈良・平安時代から脈々と続いている(奈良の正倉院にも献上品が納められているとか)と言われるほどですので、千数百年の歴史があるんですね。

へぎそばの独特のツルツルしたのどごしは、縮布を織る際に使う「布海苔(ふのり)」によるものです。
もうひとつ独特なのは、写真でも解るように「手振り」とよばれる盛りつけ方です。取り易いように一口ずつ分けられて盛りつけられています。
これにより蕎麦同士がからまらず、切れること無くすんなり取り分けることが出来ます。

一昨日は塩沢にある17号沿いのへぎそば処「田畑屋」さんでお昼をいただきました。
南魚沼周辺でへぎそばを食べるならここが一番よろしい。

実はへぎそばの他にも南魚沼(塩沢・六日町・大崎周辺)には美味しいお蕎麦があって、八海山のふもと八海山神社近くにも、清水集落近くにも、いろいろあるんですが、その話題はまた今度にしましょう。

へぎそばとカラムシ:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/05/07/

丹沢のシカ捕獲のこと 自然観察指導員研修会 … 鳥獣捕獲/自然観察・WanderVogel2015/02/09

自然公園指導員研修会
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先日、七沢にある自然環境保全センターで丹沢に生息するシカの保護管理と捕獲についての研修会が行なわれた。一般向けの講習会というよりも、神奈川県自然観察指導員を対象とした専門のレクチャーです。


研修会の主題は2つあって、ひとつは神奈川県の取り組みとしてのニホンジカ保護管理についてのこれまでの経緯と今後の目標について、もうひとつは神奈川県で行なっている少し変わった取り組みであるワイルドライフレンジャーの取り組みについてです。

ワイルドライフレンジャー制度は3年前から始まった神奈川県独自の新しい取り組みなのですが、具体的にどのような活動をしているのかその実態がよく解らなかったもので、その方の話しを直接聴きたいというのが今回の目的でもありました。

丹沢全域のニホンジカの生息数は(実際はよく解っていないので、あくまで推定数)5,000頭程度と見られています。シカは「シカ算」的に増えるので、全体数としては丹沢の場合(自然減を考慮しても)1年で約3割ずつ増えていくと言われています。

シカの社会は「一夫多妻」で、成熟したメスは1年で1頭の子供を産みます。栄養状態がよく環境も温暖だと、メスは2歳からもう子供産める身体になると言われています。
丹沢地域内ではメスの捕獲が長い間禁止されていましたので、もっぱらオスジカの捕獲を主に実施してきたということなのですが、オスの数が減っても単に「一夫“超”多妻」になるだけ(これはこれでうらやましい気もするが…)で、シカ全体の頭数調整には役立たなかったようです。

神奈川県では平成19年からメスの捕獲にも着手しだし、ようやくシカの全体頭数の削減効果が見えてきたという段階なのだそうです。県では年間2,000頭近くのニホンジカを捕獲しているとのことですが、メスジカを捕獲するようになってようやく増加に歯止めがかかった、ということですね。


ただし、一方ではその弊害も出てきていて、捕獲数が増え捕獲圧力が増してくると当然シカも警戒レベルを上げ警戒心が強くなるとともに、今までの生息エリアからより山深い標高の高い山岳地域に移動することになります。
その結果、今まで割と容易に捕獲出来ていた地域での捕獲が難しくなり、そのエリアでの捕獲数が減ってきているという状況になっているそうです。

シカもそれほど馬鹿ではない(鹿だけど)ということですよ。

そしてその状況に対応するために考え出されたのが、シカが新しく進出しだした高標高域の山岳稜線や遠方地での捕獲・調査を専門に行なう、シカ専門のワイルドライフレンジャー制度ということなんです。
考えてみれば、いたちごっこのような気もしますが、野生動物相手では人の方もそれに合わせて追いついて行くしかないのでしょう。

シカにしてみても今まで敬遠していた領域にまで足を踏み入れるわけですから、四本足のシカにとっても厳しい地形条件の場所なのです。当然、二本足の人間にとってはさらに過酷な場所での活動となります。
特に昨年、一昨年のような大雪の時は特にそうでしょう。冬山装備での行動にプラスして、重い猟銃を携えてシカに見つからないように隠れて歩くなんて、聴くだけで大変さが解ります。まして、その状況下でもしっかり成果を上げなければならないのですから、仕事とはいえ過酷なものです。


相手が「自然」と「野生動物」なのですから、人が考える計画通りに全て行くはずも無く、毎年毎年試行錯誤の繰り返しとのこと、ほんとよく解ります。

前回の鳥獣被害対策研修会:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/11/17/

越後名物・薄荷糖のこと … 食べ物・WanderVogel2015/02/10

薄荷糖
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越後名物、薄荷糖
薄荷(ハッカ:和種薄荷)とは、日本在来のシソ科ハッカ属の多年草で、ハーブ「ジャパニーズ ペパーミント」のこと。

先日、南魚沼市に打ち合わせに行った際に、塩沢にある松月の干菓子、元祖「薄荷糖」を買ってきました。
一見するとチョーク(白墨)のような姿をしていますが、口に入れるとハッカの味がけっこうシャープに口の中を刺激して、ぱっちり目が覚めます。

はっか糖の原材料は、砂糖、水飴、薄荷脳で出来ています。
薄荷脳(はっかのう)とは、ハッカ(薄荷)を蒸留してできる結晶で、つまりメントール(Menthol) のことです。

ハッカ(薄荷)は日本各地の山地に自生し栽培されていたようですが、南魚沼市の塩沢周辺にもかつて自生地があったそうです。
古くからの宿場町であった塩沢では、この薄荷の味と刺激が旅人に好評だったようで、そこから広まった、と解説されています。地元の言い伝えでは、「上杉謙信にハッカ油を献上したところ大変喜ばれた」と語られているとか。(真偽のほどは解らんが…)

塩沢周辺にはこの「薄荷糖」を作っている古い干菓子屋さんが何軒かあります。

また、魚沼丘陵を越えた信濃川左岸の山上にある松之山でもこのハッカが自生していたようで、松之山温泉でも名物のひとつになっています。何時だったか食べた覚えがあります。
ちなみに、松之山温泉は日本三大薬湯のひとつで有馬温泉、草津温泉と並んで、その温泉効能は抜群ですよ!


この魚沼丘陵を越える峠(十日町市八箇と六日町市余市を結ぶ国道253号線にある)を「八箇(はっか)峠」というのですが、このハッカは薄荷のことではないようです。
このはっかは、「ハカ」が語源で、「ハケ・バケ・ガケ」と同じ意味で、険しい崖地のことを指すらしいですね。
十日町市八箇は、明治22年に八つの地区が合併してできた八箇村の名の名残だというが、もともとは「峠」の名前であったものを付けたようです。

峠は明治22年よりずっと以前から「ハッカ峠」と呼ばれていたそうです(目からウロコの地名由来より)からね。

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