シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い1 … 海外・WanderVogel2021/07/12

アフガニスタン・カンダハル 1979冬
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写真:1979年冬に旅した、アフガニスタン・カンダハルのメインバザールの風景。

2018年1月23日の投稿を最後に3年半の月日が流れ、長い休眠期間の間に元号も「令和」に変わってしまった。

昨年の年初より続く新型コロナ過は、未だはっきりとした出口も見えない。
1年前にキャンセルしたカトマンズ往復航空券の払い戻しもまだされていない状態で、この間、海外放浪もヒマラヤトレッキングも出来ず、日本に籠もったまま鬱々とした日々を過ごしている。

そんななか少しでもポジティブになろうと、僕がこれまでに歩いてきた中近東や南アジアの山旅・辺境の旅のことなど思い起こしてみた。

つらつらと思い出してみると、インド、パキスタン、ネパール、アフガニスタン、中国、イラン、トルコ、、それらの国のなかでも「辺境」と言われる地ばかりを歩いてきたように思う。
1970年代後半から十数回繰り返してきた「辺境の旅」だが、そうとう昔のことでもけっこう細かく覚えているものだ。

40数年前、僕が南アジアの辺境地帯を歩き始めたころは現地の情報を集めるのに本当に苦労した。
その場所にたどり着くのに何日かかるのか、そもそも交通機関があるのかも不明で、外国人を泊めてくれる旅宿があるのかどうかも解らず、実際に現地に行ってみないと見当がつかなかった。
情報のとぼしい言葉の通じない見知らぬ町、見たこともない異世界を一人で歩き回るのはなんとも心細いものであったが、毎日がワクワクすることの連続だった。不安感と高揚感の交錯する若さゆえの無鉄砲さが原動力のひとつだった気がする。

そんな若かりし頃の旅をつらつら思い出しながら、次回の旅に想いを馳せているのだ。


今では、internetでリアルタイムな情報を家に居ながらに容易に収集が可能で、そういった不安感や不安定な高揚感を味わうこともなくなってしまった。
時代の流れだと言ってしまえばそうなのだが、でもそれはそれで大事なところがすっぽりと抜け落ちたような気がして至極もったいないことのように思える。

まぁ、老人の域に達した身からすれば、こんなに楽な「放浪」もないので逆にありがたいのだが、一歩間違うと「徘徊」と勘違いされてしまうな。

・・つづく・・

シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い2 … 海外・WanderVogel2021/07/13

パキスタン・イランのボーダー 1985年秋
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写真:1985年秋、パキスタン・イランのボーダー、土漠の中に延々と延びる鉄条網のフェンス、内側は地雷原。

21歳の頃から繰り返してきた南アジア辺境の旅だが、エリア的にはヒマラヤ山脈、チベット高原、タクラマカン砂漠、カラコルム山脈、カビール砂漠、タール砂漠、ルート砂漠など、インド、パキスタン、ネパール、中国(新疆ウイグル自治区、チベット自治区)、アフガニスタン、イランにまたがる地域で、いわゆる「シルクロード」の世界だ。
荒涼とした土色の世界が一面に広がっているだけのように感じられるが、そこは十数世紀に渡って大勢の隊商が行き交い栄えた重要な隊商路・交易路だったのだ。

辺境の小さな村々を巡り訪ね歩く旅は、陽炎立つ灼熱の土漠、森林限界を超えた氷河の麓、極度に乾燥し土埃の舞い上がる不毛の大地ばかりで、ひ弱な旅人にとってはどこも耐えがたいほど苛酷な地だった。

つらいし、心細いし、飯は不味いし、汚いし、臭いし、危ないし、暑いし、寒いし、と、ろくな環境ではなかった。
でも、周りに広がる異次元の世界とそこに暮らす人々の姿を見ていると、そんなちっぽけな苦しさなどどこかへ吹き飛んでしまう。


辺境の村を訪れるたびに、僕はいつも不思議に思う「何故あえてこのような苛酷な地に住み続けるのだろうか… 」絶望的に思える自然環境の中、厳しい戒律を守るかのようなストイックな営みが日々当たり前のように繰り返されていた。
彼らの暮らしぶりはまるで修行僧のように我慢強く淡々として揺るぎない。その姿に僕は強く惹きつけられるのだ。

「辺境を歩く」というこの「変態な旅」が今も続いているのはそんな理由からなのかもしれない。

ただ、ここ十数年、世の中が便利になりすぎて「辺境」と言われてきた地にも急激な変化が現れているのを感じる。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 1 … 海外・WanderVogel2021/07/14

Phu村入口門前、2018年初冬
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写真:2018年12月、今回の目的地であるphu村入口門前でのスナップ。後ろに見える雪山は中国国境チベットレンジ。

Phuへの旅/記録 1
2017年初冬のクーンブ(サガルマータ国立公園)トレッキング途中敗退にめげること無く、翌年2018年も懲りずにヒマラヤの奥地を一人歩いて来た。
目的地はマルシャンディコーラ上流のマナン郡にあるプーという名の村。

インターネット上のあるコラムで、とても幻想的な村の写真を見たことがこの旅のきっかけだった。コラムの内容を読み進めてみるとNar Phu Valleyという狭い谷を遡ったどん詰まり?に作られた「Phu」というチベット族の村で、長い歴史を持つ村であることが解った。
Phu村は標高4,080mに位置し、Phu khola 河川敷の高台斜面上に造られたチベット系ボティア族(Bhotiya)の村だ。

その写真を見た瞬間、どうしても訪ねてみたくなり、現地のTrekking Agentと事前にやり取りする時間もあまりないまま、とりあえず往復の航空券を購入し2018年12月3日カトマンズへと向かった。Trekking Agent内でもPhu村のことを知るガイドやスタッフはいなかった。情報の少ない中、少し不安を抱えながらの旅立ちだった。

Phu村へたどり着く一番簡単な行き方は、首都Kathmanduで悪路でも走れるジープを1台チャーターし、まずは2日掛けてMarcyangdi Khola (川) 沿いにあるKotoという街道筋の小村まで行く。そこで車を乗り捨て、そこから人ひとり歩くのがやっとの狭い渓谷沿いの道を遡行して行くことになる。Koto村からはマルシャンディ・コーラの支流であるNaar Khola(ナー川)とその上流のPhu Khola(プー川)を3日かけて登り詰めるとPhu村に到着する。

帰りは歩いてきた路を戻り、Koto村で乗合ジープかトラックを捕まえて鋪装された道の通ってる町まで出られればしめたもの。あとは簡単に?Kathmanduまで移動することができる。うまくいけば、行きと同じ日数で戻ることが出来るだろう。

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3年半のblog休眠期間中のトレッキングだったので、これから何回かに分けてPhu村へのTrekkingの様子を遅ればせながらUPして行こうと思う。
ブログUPに先だって、Phu村の印象を先に書いておこう。

Nar Phu Valley一帯に点在している小村は、チベット族の造る家屋特有の素朴な佇まいを見せていて、どの村にもその村の規模に不釣り合いなほど大きなゴンパ(チベット仏教僧院)が建てられている。
路傍に点在するいくつものチョルテン群と独特の色彩で彩色されたマニ石群が幻想的な光景を作り出している。祀られているたくさんのタルチョー(祈りの旗)がこの地域特有の強い風にちぎれんばかりにたなびいて、厳しい自然環境をきわ出させている。

周りはただただ土色の乾燥した大地が幾重にも連なっているだけの高高地。そこには木陰を作るような高木は見えず、目に入ってくる樹木は背の低いトゲのある低木くらいなものだ。
ここに立ち、周りを眺め見れば見るほど「なぜこのような隔絶された厳しい地をわざわざ選んで村を造ったのか?」という素朴な疑問が頭をよぎる。

Phu村の手前には、この小さな村を守るだけにしては立派すぎる規模の石積みの城砦が切り立った渓谷を挟んでそびえ建っていて、何やら不思議な謎を秘めた村に入って行くような感覚におそわれる。
斜面上の地形に沿って展開しているPhu村の一番高い位置に建てられた古いゴンパから村を俯瞰してみると、なんとも幻想的で不思議な光景が広がっていた。
チベット族独特の陸屋根の家屋がすり鉢状に積層し階段状に建ち並ぶ姿は、ほかでは余り見たことのないゾクゾクするほど独創的で有機的な造形を作り出していた。

Phu村を越えてさらに谷を奥に進むとチベット国境(中国国境)に行き着き、その先はチベット高原の核心部へと続いている。
いにしえの交易路はチベットの都ラサへと延々と続いているのだ。そして、ここもまたシルクロードの一端を担う交易路のひとつだったのだ。
ただし、運んでいたのはシルクではなく岩塩なのだが。
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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い /リスト1 … 海外・WanderVogel2021/07/15

イラン・マシュハド・シーア派の聖地イマーム・レザー廟 1979年冬
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写真:1979年冬に訪れた、イラン・マシュハドに建つシーア派の聖地・イマーム・レザー廟

これまでに旅をした中近東・南アジアについて 1

1:ヒマラヤ周辺:チベット仏教圏/ヒンドゥ教圏/イスラム圏

・(Nepal) ナー・プー渓谷:ベシサハール~コト~プー

・(Nepal) カリガンダキ川:ポカラ~マルファ~ムクチナート

・(India) ヒマーチャルプラデーシュ:アムリトサル~ダラムサラ~マナリ

・(Nepal) ランタン谷:ランタン~キャンジンゴンパ

・(India) ジャンム・カシミール:スリナガル~ラマユル~レー・ラダック

・(Nepal) タマンヘリテイジエリア~ラウレビナヤク

・(Nepal) アンナプルナ外周:ポカラ~マルシャンディコーラ~トロンパス~カリガンダキ

・(Tibet/中国) チベット高原:成都~ラサ

・(India) カンチェンジュンガ東端:シリグリ~ダージリン~カリンポン

・(Nepal) クーンブ・エベレスト:ルクラ~ナムチェ~チュクン

・(Afghanistan) ヒンズークシュ山脈:ヘラート~カンダハル~ガズニ~カーブル~ジャララバード~カイバルパス

・(Pakistan) カラコルム山脈/バルティスタン:イスラマバード~ベシャム~ギルギット~カリマバード/フンザ

・(中国) タクラマカン砂漠/天山南路(未開放地域):ハミ~ウルムチ~コルラ~クチャ~キジル~アクス~カシュガル

・・つづく・・

シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い /リスト2 … 海外・WanderVogel2021/07/16

1979年イラン国内の小村にて
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写真:1979年イラン国内の小村にて、人と物資を運ぶコンボイ。アジアハイウェー1号線

これまでに旅をした中近東・南アジアについて 2

2:ヒマラヤ以外の辺境/山旅:イスラム圏/ヒンドゥ教圏

・(Pakistan) バローチスタン高原:クェッタ~Sandy Desert横断~イランボーダー

・(Turkey) アナトリア高原:エルズルム~カイセリ~カッパドキア~コンヤ

・(India) タール砂漠:ジャイプール~ナワルガル~ジョードプル~ジャイサルメール~ウダイプル~アーマダバード

・(Iran) ルート砂漠/カビール砂漠:ザヒダーン~ケルマーン~シラーズ~ペルセポリス/ナクシュ・イ・ルスタン~ヤズド~イスファハン

・(Malaysia) ボルネオ島/熱帯雨林:コタキナバル
       マレー半島:コタバル~クアラトレンガヌ~クアンタン、ペナン/ジョージタウン

・(India) タミルナードゥ:ブバネシュワール~カンチプラム~ボンディシュリ~マドゥライ~ラメシュワラム~カニャクマリ

番外:
・(Morocco) サハラ砂漠:マラケシュ~ワルザザート~ティネリール~メルズーガ~リッサニ~フェズ

・(Swiss) スイスアルプス:グリンデルワルド~ミューレン~グリュイエール

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 2 … 海外・WanderVogel2021/07/17

Phu川の風景 2018年初冬
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写真:トレッキングの途中足を止め、振り返って見たPhu川の風景 2018年12月

Phuへの旅/記録 2
現地のcheck postでもらった1枚のリーフレットによると、この地域が一般の外国人クライマーに開放されたのは1991年10月からとあるが、別の情報では一般トレッカーへの開放は今世紀に入ってからの2003年だと記されている。いずれにせよ、つい最近まで一般旅行者の立ち入りが厳しく制限されていた地域、ということだ。
ただ、このルートは、Himlung (7,126m) BaseCampへのアプローチルートになっているので、マイナーながらも一部のクライマーには多少知られてはいた。

アンナプルナサーキットやエベレスト方面の主要なトレッキングルートと違い、設備の整った宿があるわけでもなく、名の知れた山がどーんと見える!というわけでもない。そのわりに往復にけっこう日数を喰われるので、訪れるトレッカーが極端に少ないのかもしれないが、もともと情報が少ないが故に不安要素があるというのも大きな要因だろう。netで検索しても日本語での情報がほとんど見つからなかったのはそう言うことなのかもしれない。

今回の山旅で目にし体験した荒涼として殺伐とした乾いた大地、趣きのある大きなチョルテンとゴンパ、城砦のようなphu村の佇まい、風俗,暮らしぶり、民家の囲炉裏端に吊るされた干涸びたヤクの干し肉、など、昔旅した「チベット」や「ラダック」を思い出させてくれるような異世界だった。

Naar Phu Valleyの高標高で極度に乾燥した渓谷には、ボティア(Bhotiya)の人々が何世紀にもわたって住み暮らしてきた。この地は今でも文化的にも宗教的にも完全にチベット文化圏に入る。
この地方の住民のほとんどが今でもチベット語を話せ、読み書きも出来るのだという。普段、Nar Phuの人々は「ナル語」というこの地域独特の言語を使っている。ナル語(Nar)は、Nar Phu地方のナル (Nar)とプー(Phu)の2つの村の住民の間だけで話されている超マイナーな言語なのだそうだ。

Naar Phu Valleyは、北と北東でペル山脈を境に中国・チベット自治区と国境を接し、西北はダモダル山脈でムスタン(王国)と隔てられている。その他の西側と南側、東側はいずれも5,000m~6,000m級の高い山々が屏風のように立ちふさがっている。


Naar Phu Valleyを歩くには、ネパール国内でのトレッキングで通常必要な2種類の許可証TIMSとACAPに加えて、特別な Permit(許可証)が必要になる。
さらに、ガイドを連れていたとしても、外国人一人でのトレッキングは認められていない。外国人2人以上の行動が入域の条件となっていて、谷入口のチベット風の門の手前に建てられたcheck postでしっかりチェックされる。
(今回、現地ガイドとポーターを連れていたとはいえ、単独行の僕が正式なPermitを取得出来たのにはちょっとした訳があるのだが、詳細は省く。)

Naar/Phu khola入域のPermit Feeは、9月~11月までは週一人あたりus$90、12月から8月までが週一人あたりus$75とけっこう高額だ。この額はMustangへの入域Permit Feeに比べるとまだ格安なのだが、Mustangの対象エリアと比べるとこちらはかなり狭いエリア(基本的にはNaar/Phuの2村)なので、一般トレッカーにとってこの値段設定はやはり高額にうつる。

Permit Feeの支払いは、空港での入国Visa取得と同様にアメリカドルキャッシュでの支払いしか出来ないので注意が必要だ。ネパールルピーで支払おうとしてもダメなのである。

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山の自然素材を使って作るアート(アザミ) … Nature Art・Workshop2021/07/18

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神奈川県丹沢戸川周辺の山で森林整備をボランティア仲間と行っている。
3年ほど前から「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”を始めたが、この新型コロナ過でこのところ中断したままとなっている。落ち着いたらまた再開したいと思い準備をしている。

単に自然素材を使って作るもの、ということではなく、山を歩き季節を感じ、目に付くもの興味を引くものを「拾い集め」その中からアート作品を作っていく。自然の持つ神秘さや不思議さに感性を刺激され、普段何げなく接していたものにも「自然って、こんなに不思議な仕組みを持っているんだ!」と驚くことも多くある。
これまで個人的にWS ワークショップ用の「習作」を何点か作ってきているので、そのうち「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品をいくつか紹介していこうと思う。

まずは「アザミ」、野山で一番目に付く植物(花)のひとつだね。
秋になり、枯れたその姿も僕は好きだ。

Cirsium (Cirsium japonicum)アザミ(薊)
キク科アザミ属(Cirsium)及び、それに類する植物の総称。
多年草または一年草。アザミ属の花は虫媒花で、花粉と蜜によって虫を誘う。
キク科の花に多く見られる、頭状花序は多数の筒状花からなる複雑な造形・ディテールをしている。
北半球の温帯から寒帯一帯に分布し、紫系の丸い花、切れ込みとトゲのある葉といった特徴を共有しつつ、活発に種分化していくようだ。
北アメリカに約90種、ヨーロッパに約60種、中国に約50種、日本にも60種以上、全部で約300種もあると言われている。
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山の自然素材を使って作るアート(ボダイジュ) … Nature Art・Workshop2021/07/19

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:ボダイジュの種子。
上に付いている葉っぱのようなものは「苞(ほう)」で、そこから延びる枝の先に種子が付いている。花の時期は6~7月頃で樹木全体が淡黄色に見えるほど一面に花を咲かせる。種子の姿になるのは早いのだが、枯れた姿で採取出来るのは初冬になってからで、その頃になると地面がこの種子でいっぱいになる。
この独特の形状の苞付きの種子は、風の流れにうまく乗りバランスをくずさず長い距離を移動して行くことが出来ると言われているが、境内に植えられているものに関しては場所柄かそれほど広範囲に拡散しないように思う。

インドやネパールに行くとよく見かける「ボダイジュ:菩提樹」は、釈迦が悟りを開いたと言われるインドボダイジュ(印度菩提樹、学名:Ficus religiosaa)とベンガルボダイジュ(ベンガル菩提樹、学名:Ficus benghalensis)。共にクワ科イチジク属の植物。
インドボダイジュはインドの国花になっている。ベンガルボダイジュは沖縄ではガジュマルとも呼ばれる。
日本で目にするボダイジュはシナノキ科(APG分類では、アオイ科)の植物なので、上記とは全く別のものになる。

ボダイジュ(菩提樹、Tilia miqueliana )
中国原産、シナノキ科(APG分類では、アオイ科)の落葉高木。
日本へは、臨済宗の開祖栄西が中国から持ち帰ったと伝えられ、日本各地のお寺や(なぜか)神社の境内によく植えられている。
葉の形がインドボダイジュに似ていることから間違われて名付けられたと書かれているものもあるが、うーん、葉の形はぜんぜん似ていないように僕は感じるのだが、、、
種子はへら形の苞(ほう)葉から延びる花柄の先端に2~4個程度付き、竹トンボのようにくるくる回りながら飛ぶ。
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山の自然素材を使って作るアート(ハハコグサ) … Nature Art・Workshop2021/07/20

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見過ごしてしまいそうなほど「普通」な植物にあえて注目して作ったドライ標本風のサンプル作品:母子草
里山に限らず、春になると住宅地脇の空き地でもあたり前に、普通に、見られる愛らしい花だ。

茎が柔らかく、花自体が産毛のような綿毛ですっぽり覆われているためドライフラワー化するのにかなり苦労する。
また、いつまでも産毛が舞って周辺に飛び散るので注意が必要だ。
黄色い色の花は2年近くあまり色あせること無く残るのだが、腰が無く自重で垂下がってしまい作品化するにはなかなか安定しないのが難点。
造形的にユーモラスな姿をしているので、レイアウト次第で面白いネーチャー・アート作品に仕上る。

「春・プリマベーラ」と題して、「美」「愛」「貞操」を表現してみました。なんてね。


Gnaphalium affine ハハコグサ(母子草)
キク科 ハハコグサ属の越年草。
花期は4~6月で、茎の先端に頭状花序の黄色の花を多数つける。
葉は先が丸みを帯びたへら状で互生し、葉と茎には白い綿毛が見られる。
中国からインドシナ、マレーシア、インドにまで分布する。日本では全国に見られるが、古い時代に朝鮮半島から伝わったものとも言われる。
春の七草のひとつ「御形:ごぎょう、おぎょう」のことで、若い茎葉は食用とされる。
草餅の材料として一般的なのはヨモギ(蓬)なのだが、その昔はハハコグサ(母子草)が使われていたという。
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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 3 … 海外・WanderVogel2021/07/22

kyang村とchorten
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写真:朱色に塗られた基壇の上に載る彩色されたマニ石群とchorten、2018年12月、kyang村にて

Phuへの旅/記録 3
Kotoを出発し3日目、Phu Khola(プー川)河畔の少し上に出来た高台に出る。標高3,890mにあるKyang村だ。

ヒダのような支尾根を巻いてアップダウンを幾度も繰り返しながら、荒れた小石まじりの道は延々と渓谷の奥へと続いている。
美しい景色に元気づけられテンポ良く歩き、kyang村に到着した。村にはカマドの煙一筋も見えず、人影も見えず、一切が静寂に包まれていた。

トレッキング初日は思いがけず積雪に見舞われ、昨日も気温がグッと下がり地面は凍てつき、体調も風邪気味で元気が出なかったが、今日は快晴で高度を上げていることも忘れるくらい気分は上々だ。空の色がだんだんと濃くなり、紫外線量も増えてきているのが実感出来る。

Kyang村の入口付近には、朱色に塗られた基壇の上にブルーで彩色された石に梵字が刻まれたマニ石が並んでいる。(写真)
この地域だけに見られる独特の意匠だ。
乾いた土色の岩山をバックにとても幻想的な光景だった。

一昨日、昨日と同様にKyang村でもひとけがまったく無く、かろうじて一軒だけやっていたバッティというか民家に入る。
朝食を食べてからまだそれほど間もないのだが、ここで何か食べておかないと目的地のPhu村まで途中に村も民家もない。この先Phu村に着くまで、お茶一杯飲むことも出来ないのだ。
とりあえず白米だけを頼み、ふりかけをかけお茶をぶっかけて無理矢理胃の中に流し込んだ。食事をすると言ってもオーダーを聞いてからおもむろにご飯を炊き始めるわけなので、けっこう時間がかかるものである。圧力鍋で炊きあがったご飯をガバガバっと掻き込む。

ご飯が炊きあがるのを待っている間に、村の古い家屋群を見て回る。
Kyang村には、チベッタン風の石積み壁に陸屋根の古い家屋が多く残されている。普段使われていない感じが見受けられるので、やはり冬期間だけの使用なのだろう。もはや住居としてではなく、家畜小屋として使われている家屋も多く見られた。

家屋は周りの岩を砕いて壁などの建築材料としているので、完全にまわりの景色に溶け込んでいる。色彩的に完璧にカモフラージュされているので、遠望からはなかなかその全貌が見えてこない。ところどころに立てられているタルチョーの鮮やかな三色の旗が村の存在、家屋のありかをかろうじて主張しているかのようだ。
屋根は陸屋根で木材を架けて下地としその上を土で覆った構造だ。家屋のなかには屋上に植物(雑草)が自然に生えてきている姿も見られるが、これは意図したものではなく、単に管理がなされていない証拠だろう。本来陸屋根上では収穫物を干したり、作業場として使われることが多いので、土を敷いたままきれいに掃除がなされているはずだから。

バッティの主に聞いてみると、この村は本来ここより奥にあるPhu村の冬の村として昔から使われてきたということだったが、最近はもっと下の大きな村まで下って越冬をするのだという。これも時代の流れなのだろう。

決して広くはない高台に作られた草地は、ヤクなどのカルカ(草地・放牧地)として使われていて、ヤクや馬がかろうじて残された枯れた草を食んでいた。

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