シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出10 … 海外・WanderVogel2021/09/05

中国西安・大雁塔 1984年秋
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写真:1984年秋、西安、大慈恩寺・大雁塔。

シルクロードを旅する。
大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵(三蔵法師)がインドから持ち帰った経典や仏像などを安置するために、高宗に申し出て大慈恩寺境内に建立した塔。
2014年に「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。
長安・西安は、シルクロードの出発点であり、到達点でもあった。

ちなみに、玄奘三蔵も中国からインドに入る際にカイバル峠を越えている。
玄奘が辿ったインドまでのルートを簡単に整理してみると、長安(西安)の大覚寺で学んだ玄奘は国禁を犯して密かに出国、河西回廊を経て高昌国に至る。そこから玄奘は西域の商人らに混じって天山南路を進み、途中から天山山脈のベテル峠を越えて天山北路へと渡る過酷なルートをたどり中央アジアの旅を続ける。
サマルカンド、タシケント、バーミアンを経て、ヒンドゥークシュ山脈を越えカイバル峠を下り、インド・ガンダーラ地方のタキシラに至った。
さらにそこから、ガンジス川に沿って東進しハルシャ・ヴァルダナ朝の都ナーランダー僧院にたどり着いたわけだ。帰路も往路同様に陸路で長安まで帰国している。帰路ではなんとタクラマカン砂漠の南側、シルクロードの中でももっとも過酷なルートである西域南道を経て帰国の途についているのだから、今から考えても想像を絶する命がけの大冒険だっただろう。
玄奘はインド国内でも精力的に動き回ったようで、カシミール地方からバータリプトラ(現パトナ)、ブッダガヤ、ベナレス、アジャンター、南インドと、広範囲にあちこちを巡っている。まさにバックパッカー界のカリスマと名付けたいくらいの坊さんだ。

memo:
・河西回廊:長安(西安)から蘭州、酒泉をへて敦煌へ至るルート
・天山南路(西域北道):敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルート
・天山北路:敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルート
・西域南道:敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁上のオアシスを渡り辿ってパミール高原に達するルート



1984年に慈恩寺を訪れた時、大雁塔は境内にポツンと建っている、という印象だった。有名な仏教遺跡のひとつだというのに、日本人を含め外国人観光客の姿はあまり見受けられなかった。

1980年代、中国国内での個人自由旅行は基本的にはNGで、そもそも日本の中国大使館では個人で入国VISAを申請することは出来なかったのだ。
そこで僕らは当時まだ中国に返還されていなかった香港に向かった。
当時、香港から陸路で中国国内に入る際にだけ国境イミグレーションで、香港市民や華僑(Overseas Chinese)と同じように日本人を含む外国人に対しても、1週間程度の短期間の入国VISAを発行してくれた。
その後、中国本土にある「公安局」で何回かに分けてVISAをエクステンドしていくと、最長3ヶ月間滞在することが出来た。大都市の公安局では10日間程度の延長しか認めてくれないケースが多かったが、地方都市に行けば(へき地であればあるほど)もう少し長い期間の延長申請を受け付けてもらうことが出来た。
VISAの延長手続きは延長日数にかかわらず、1回5元で、VISAの切れる前日か当日に申請に出向かないと追い返されることもあった。午前中朝早くに申請に行くのがキモだったのを覚えている。

とはいえ、有効な入国VISAさえ持っていれば、中国国内を自由に旅することが出来たかと言うとそういうわけではない。(これは華僑であっても同じだ)
外国人が旅をするにあたって、国内のエリア・都市は、開放都市、準開放都市、未開放都市の3つのジャンルで色分けされていた。
開放都市は自由に行動出来るのだが、あの広い中国大陸で北京を含むわずか30都市にとどまっていて、僕らが訪ねたい町や村はたいがい準開放都市か未開放都市のどちらかに分類されていた。

準開放都市を訪れるには「公安局外事課」で都市名をひとつひとつ申請し、パーミッションを取得する必要があった。入国時のパスポートスタンプとは別に許可証(Alien's Travel Permit 外人旅行証)を発行手数料1元を払って作ってもらい、そこに希望する準開放都市の名称を記載してもらうという手順が必要だった。

申請は1回につき10都市まで出来たが、チベット自治区は全土が完全未開放で、ウイグル自治区内での準開放都市はウルムチ、石河子(シーホーズー)、トルファン、カシュガルの4都市のみ、雲南省は昆明と大理のみ、青海省も2都市のみという厳しい状況だった。
チベット自治区に関しては、僕たちが中国に滞在している間に幸運にもラサ市のみ準開放都市となったため、速攻で公安局で追記してもらって、訪れることが出来たので、これは大変ラッキーだった。

未開放都市に到っては文字通り「立ち入ってはいけない町」なのであるが、ローカルバスなどで移動しているとどうしても未開放都市に泊らざるを得ないことが多々あった。こればかりはどうしょうもないのだが、けっこう緊張するものである。


当時、中国には2種類のお金(紙幣)が存在していた。
1つは一般に流通している「人民元」で、もう1つは外国人用の「兌換券」と呼ばれる紙幣だ。
外国人が銀行で両替出来るのはこの兌換券なのだが、それは一般のお店や食堂ではあまり使われないお金で、外国人用ホテルやレストラン、「友誼商店」と言う外国人専用の商店で使うことを前提としたお金なのである。つまり、中国を訪れる外国人旅行者はお金を持ったツアー客しかいない前提であったということだろう。
この外国人専用の友誼商店では、外国人用の土産品はもちろんのこと、中国国内では絶対に買うことが出来ない外国製のカラーテレビやたばこ、お酒、ブランドものなどを手に入れることができた。
一方で外国製品が欲しい中国のプチ富豪がいて、一方で人民元を入手したいバックパッカーがいるのだから、当然そこには「闇両替」のような仕組みが出来あがるのはある意味必然だっただろう。
でも、この話しはまた次の機会にしよう。

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