シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出14 … 海外・WanderVogel2021/09/18

フンザ1985年
- -
写真:1985年、フンザ村の一般的な民家の光景。陸屋根の上に並べられたアンズの実。ドライフルーツとして売られていく。

パキスタン北部のギルギット・バルティスタン州にあるフンザ・カリマバード(Karimabad)は、パキスタンと中国を結ぶカラコルム・ハイウェイの途上に位置している。つい最近の1974年までは、フンザ藩王国の王都が置かれていた村でもある。

村を通るカラコルム・ハイウェイは、国境を横断する舗装道路としては世界一の高所となるクンジュラブ峠(海抜4,693m)を通り、中国・新疆ウイグル自治区へと抜ける国際道路で、ハイウェイは古代のシルクロードのルートをなぞるように建設されている。
パキスタン、中国共同で20年の歳月を掛けて整備・建設され、1978年に完成した。インドとパキスタンのカシミール地域を巡る対立が、どちらも一歩も引けない状況が続いているため、カラコルム・ハイウェイはパキスタンにとって戦略上重要な拠点と見なされている。


1985年に僕らがフンザ村を訪れた時、アンズの実の収穫の真っ最中だった。
村のあちこちには石垣で囲まれた杏の果樹園が広がり、春先には淡いピンク色の花がいっせいに咲き誇ることから「桃源郷」のイメージがあるフンザだが、自然環境的にはそう甘いものではない。急峻な雪山や険しい岩山に囲まれた標高約2,500mに位置するフンザ村は、人が住むのに適しているとは言い難い厳しい環境の土地だと感じた。
フンザ村の脇を流れるインダス川支流のフンザ川(ギルギット川)は険しい渓谷を造り、ミルクコーヒー色をした濁流で今も河岸を削り取っている。ギルギットからフンザに至る道も1980年代当時は当然鋪装などされているわけも無く、世界一危険な道のひとつだった。

古くからの主要交易路・隊商路と言われているカラコルム街道であっても全ての区間、安全安心な「道」が担保されているというわけでないのだ。極論すれば、かろうじて通ることが出来るルート、という程度の安全性を確保すること、これが精一杯というのが本当のところなのだと思う。昔から東西交易路を行き来するというのはかなりのハイリスクなことだったのだろうなぁ、とあらためて考えさせられた。


フンザに暮らしている人々の起源はイラン系であるとか、アレクサンダー大王が率いた遠征軍の末裔のギリシア系であるとかいろいろな説があるようだが、本当のところはよく解っていないようだ。ただ、フンザ村の中を歩いていると、中央アジア系、アーリア系、モンゴル系など、肌の色、髪の色、瞳の色、顔の輪郭の違いなど、じつに多種多様な人達と出会う。
古くからシルクロード・東西交易路を往来して来たいくつもの民族の複雑な混血の結果なのではないか、と推測するがそう大きな間違いではないだろうな。

玄奘三蔵はインド・ナーランダー僧院で学んだ後の帰路、フンザ滞在後、ここからフンザ川に沿って北上し、峠(ミンタカ峠かキリク峠)を越えてタシュクルガン(現在の中国新疆ウイグル自治区にある古都、石頭城のこと)に抜けたと言われている。この峠は、現在唯一の国境通過ポイントであるクンジュラブ峠より少し西側に位置するようだ。

カラコルム・ハイウェイ開通以降、それに接続する道路の整備も進み、年を追うごとに大型のトラックでの行き来が盛んになっていったようだ。
かつて「桃源郷」と呼ばれた素朴で落ち着いた辺境の村フンザも、今では中国から大量に運ばれる中国製の安い衣類や電化製品ばかりが並び、あふれかえることになっていると聴く。

僕らが訪ねた頃ののんびりとした面影はすでに遠い世界の話になってしまったのだろうか。

- -

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2021/09/18/9424701/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。

アクセスカウンター