シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出10 … 海外・WanderVogel2021/09/05

中国西安・大雁塔 1984年秋
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写真:1984年秋、西安、大慈恩寺・大雁塔。

シルクロードを旅する。
大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵(三蔵法師)がインドから持ち帰った経典や仏像などを安置するために、高宗に申し出て大慈恩寺境内に建立した塔。
2014年に「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。
長安・西安は、シルクロードの出発点であり、到達点でもあった。

ちなみに、玄奘三蔵も中国からインドに入る際にカイバル峠を越えている。
玄奘が辿ったインドまでのルートを簡単に整理してみると、長安(西安)の大覚寺で学んだ玄奘は国禁を犯して密かに出国、河西回廊を経て高昌国に至る。そこから玄奘は西域の商人らに混じって天山南路を進み、途中から天山山脈のベテル峠を越えて天山北路へと渡る過酷なルートをたどり中央アジアの旅を続ける。
サマルカンド、タシケント、バーミアンを経て、ヒンドゥークシュ山脈を越えカイバル峠を下り、インド・ガンダーラ地方のタキシラに至った。
さらにそこから、ガンジス川に沿って東進しハルシャ・ヴァルダナ朝の都ナーランダー僧院にたどり着いたわけだ。帰路も往路同様に陸路で長安まで帰国している。帰路ではなんとタクラマカン砂漠の南側、シルクロードの中でももっとも過酷なルートである西域南道を経て帰国の途についているのだから、今から考えても想像を絶する命がけの大冒険だっただろう。
玄奘はインド国内でも精力的に動き回ったようで、カシミール地方からバータリプトラ(現パトナ)、ブッダガヤ、ベナレス、アジャンター、南インドと、広範囲にあちこちを巡っている。まさにバックパッカー界のカリスマと名付けたいくらいの坊さんだ。

memo:
・河西回廊:長安(西安)から蘭州、酒泉をへて敦煌へ至るルート
・天山南路(西域北道):敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルート
・天山北路:敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルート
・西域南道:敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁上のオアシスを渡り辿ってパミール高原に達するルート



1984年に慈恩寺を訪れた時、大雁塔は境内にポツンと建っている、という印象だった。有名な仏教遺跡のひとつだというのに、日本人を含め外国人観光客の姿はあまり見受けられなかった。

1980年代、中国国内での個人自由旅行は基本的にはNGで、そもそも日本の中国大使館では個人で入国VISAを申請することは出来なかったのだ。
そこで僕らは当時まだ中国に返還されていなかった香港に向かった。
当時、香港から陸路で中国国内に入る際にだけ国境イミグレーションで、香港市民や華僑(Overseas Chinese)と同じように日本人を含む外国人に対しても、1週間程度の短期間の入国VISAを発行してくれた。
その後、中国本土にある「公安局」で何回かに分けてVISAをエクステンドしていくと、最長3ヶ月間滞在することが出来た。大都市の公安局では10日間程度の延長しか認めてくれないケースが多かったが、地方都市に行けば(へき地であればあるほど)もう少し長い期間の延長申請を受け付けてもらうことが出来た。
VISAの延長手続きは延長日数にかかわらず、1回5元で、VISAの切れる前日か当日に申請に出向かないと追い返されることもあった。午前中朝早くに申請に行くのがキモだったのを覚えている。

とはいえ、有効な入国VISAさえ持っていれば、中国国内を自由に旅することが出来たかと言うとそういうわけではない。(これは華僑であっても同じだ)
外国人が旅をするにあたって、国内のエリア・都市は、開放都市、準開放都市、未開放都市の3つのジャンルで色分けされていた。
開放都市は自由に行動出来るのだが、あの広い中国大陸で北京を含むわずか30都市にとどまっていて、僕らが訪ねたい町や村はたいがい準開放都市か未開放都市のどちらかに分類されていた。

準開放都市を訪れるには「公安局外事課」で都市名をひとつひとつ申請し、パーミッションを取得する必要があった。入国時のパスポートスタンプとは別に許可証(Alien's Travel Permit 外人旅行証)を発行手数料1元を払って作ってもらい、そこに希望する準開放都市の名称を記載してもらうという手順が必要だった。

申請は1回につき10都市まで出来たが、チベット自治区は全土が完全未開放で、ウイグル自治区内での準開放都市はウルムチ、石河子(シーホーズー)、トルファン、カシュガルの4都市のみ、雲南省は昆明と大理のみ、青海省も2都市のみという厳しい状況だった。
チベット自治区に関しては、僕たちが中国に滞在している間に幸運にもラサ市のみ準開放都市となったため、速攻で公安局で追記してもらって、訪れることが出来たので、これは大変ラッキーだった。

未開放都市に到っては文字通り「立ち入ってはいけない町」なのであるが、ローカルバスなどで移動しているとどうしても未開放都市に泊らざるを得ないことが多々あった。こればかりはどうしょうもないのだが、けっこう緊張するものである。


当時、中国には2種類のお金(紙幣)が存在していた。
1つは一般に流通している「人民元」で、もう1つは外国人用の「兌換券」と呼ばれる紙幣だ。
外国人が銀行で両替出来るのはこの兌換券なのだが、それは一般のお店や食堂ではあまり使われないお金で、外国人用ホテルやレストラン、「友誼商店」と言う外国人専用の商店で使うことを前提としたお金なのである。つまり、中国を訪れる外国人旅行者はお金を持ったツアー客しかいない前提であったということだろう。
この外国人専用の友誼商店では、外国人用の土産品はもちろんのこと、中国国内では絶対に買うことが出来ない外国製のカラーテレビやたばこ、お酒、ブランドものなどを手に入れることができた。
一方で外国製品が欲しい中国のプチ富豪がいて、一方で人民元を入手したいバックパッカーがいるのだから、当然そこには「闇両替」のような仕組みが出来あがるのはある意味必然だっただろう。
でも、この話しはまた次の機会にしよう。

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古い山装備でもちゃんと現役で使えるのだ SVEA123R … 山歩き・WanderVogel2021/09/04

SVEA123R ストーブ
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写真:SVEA123R ガソリンストーブと40年前の年代物のプレヒート用着火材「META」

山用品に関しては、絶対に新しいものの方が良い。というのが真理だと思うのだが、このSVEA123はとても信頼性が高く、今でもちゃんと使えている。
購入した時期ははっきりと覚えてはいないが、1970年代の後半か1980年代に入ってすぐかぐらいだと思う。燃料はガソリンなのだが、煤の出にくいホワイトガソリンというのを使用する。

SVEA123の歴史は長く、古いタイプのものは燃料噴射口の掃除用のニードルピンが別体になっていたが、改良型では内蔵され格段に使い勝手が上がった。
着火にはプレヒート用着火材を中央ノズル下のタンクのくぼみに載せて火を付けてヘッドを温める方式なのだが、META1本の1/4程度の大きさでプレヒートは十分なのでこの点もかなり優秀と言える。

難点は火の調節があまり出来ないという点だ。弱火にすると煤が発生するので、全開か消すかに限られてしまう。この点はガスストーブには負けてしまう点だな。
ただ、半分雪に埋もれた状態でも、ちゃんとお湯を湧かせられると言う絶対の信頼性は他に変えがたいものがある。
とは言え、山用品は新しいものの方が良い。というのはやはり真理なのだ。現在の山用ストーブの使い勝手の良さから比べると、SVEA123はやはり霞んでしまう。


大学のクラブ(ワンゲル)活動では、主に灯油(ケロシン)を燃料としたストーブを使用していた。スベアと同じスエーデン製で、ラジウスと言うメーカーのものだった。移動時には分解してブリキの箱に収納して運ぶようになっていて、中に一緒に修理道具や何本かの掃除用ニードルピン、ウエス、着火材(META)などを仕舞っていた。
火力が低い割りにブリキの箱自体がけっこうかさ張るので、山合宿では持ち運びに苦労した経験がある。そのころのワンゲル部員が背負っていたザックはみな帆布製のキスリングであったためパッキングに難儀をした。うまい具合に配置しないとブリキの箱の角が背中に当たって痛い思いをすることになる。

ラジウス自体には燃料タンクに加圧のためのプレッシャーポンプが付いて、ノズル上のくぼみに火を付けたmetaを置くか、灯油を溜めて火を付け直接ヘッド部を温め、適当な頃合いを見計らって少し圧を掛ければケロシンが気化し燃焼したのだが、問題はこのポンプ軸の先に付いているパッキンだった。当時のものは質が悪く、すぐに乾燥して収縮しひび割れてしまい、うまい具合に圧がかからないことが多々あった。そのたびに分解してパッキンをツバで濡らし柔らかくして使用するというなんとも原始的な方法をとっていたのを思い出す。
おまけにノズルの穴がよく詰まるので、ニードルピンは必帯装備であった。(ニードルピンはよく曲がったりしたので、必ず予備を何本か持っていなければならなかった。)

それに比べ、このSVEA123はノズル部が溶接されていて分解出来ない構造で、プレッシャーポンプも付いていないため、ゴム製や樹脂製の部品がひとつも使われていないオールブラス製であるので、ほとんど(というか、まったく)メンテナンスしなくても不具合が発生しないという優れものだ。


海外での山行では、合宿でのラジウスで経験を積んだノウハウが十二分に活かされることになった。
1980年に初めて一人でヒマラヤを歩いた時、インドで買ったインド製ラジウスを持って2週間カリガンダキ沿いの古い交易路(チベットとインドを結ぶ交易路で、使役動物はヤクが主流だった。)を歩いた。麓の町ポカラでケロシンを買い、食料を調達し、テント(ダンロップ製の2人用のエスパーステントを持っていた)を背負っての山歩きだったが、今思い返してみると若いから体力があったのだろうなぁ、とこの歳になってしみじみと思う。
今、とてもじゃないが自分の個人装備でさえ自分で背負うのが厳しくて、ネパールではかならずポーターを一人雇うくらいなのだから、、、
やはり、歳には勝てないな。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出9 … 海外・WanderVogel2021/09/03

ペシャワールのチャイハナ1985年秋
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写真:1985年8月、ペシャワール旧市街のチャイハナの厨房。チャイは青いホーロー引きの小さなポットに入れられる。

パキスタンとインド、どちらにも同じようなチャイ屋はあるが醸し出す雰囲気はまったく別物だ。
インドではチャイは1杯ごとにガラスのグラスで出され、クイッと飲むとサッと出て行くという感じなのだが、パキスタンのチャイハナでは必ずと言っていいほど青いホーロー引きのポット(1potで4杯ほど飲める)で出され滞在時間もかなり長い。(1979年12月に撮ったチャイハナでの写真でもまったく同様の青いホーロー引きのポットが写っている。)
パキスタンのチャイハナはアルコールを出さないイギリスのパブのような雰囲気で、男達がチャイを何杯も飲みながら長時間談笑していた。チャイハナは完全に男の世界だ。ここでは女性の姿を見ることは皆無なのだ。

青いホーロー引きのポットの中身は、インドでよく飲まれる甘いミルクティーだけでなく、緑茶や紅茶など様々なバリエーションが楽しめる。
もちろん、緑茶を頼んでも砂糖たっぷりで出てくるので、甘くないお茶を飲みたい時には「エクチャイ、チニー、ネ(砂糖抜きのお茶を1杯)」という具合に店主にひと声掛けねばならなかった。

パキスタンの国の中でもペシャワールは独特なお茶文化を持っているような気がする。ペシャワールのチャイハナでは必ず大きな銅製のサモワールが設えられていて、店主の座っているその下には炭が焚かれたカマドが埋められていて、常にポットが温められている。
注文が入るたびに、サモワールからお湯をポットに移し、チャイや紅茶、緑茶の注文ごとに1ポットごと素早くお茶を入れていく。隣の鍋の中には温められたミルクが入っていて、よどみのない一連の所作によって次々とお茶が入れられていく。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出8 … 海外・WanderVogel2021/09/02

ペシャワール1985年8月
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写真:1985年8月、フンザ・ギルギットからの帰路、ペシャワールに戻ってきて旧市街のバザールの一画にあるチャイハナでくつろぐ。
陽射しを遮る布が張られた店先で並べられたチャールポイに座り現地の人たちに混じってチャイを楽しんでいる。青いホーロー引きの小さなポットに入れられ運ばれてくるチャイ。


ペシャワールは古くはプルシャプラ(Purushapura)と呼ばれた古都。僕にとっては1979年以来5年ぶりの訪問となる懐かしい町だ。
当時の日記に、バザールの面白さはペシャワールのものがピカイチだ!、と書いてあるので、今まで見てきたバザールのなかでもキサ・カワニバザールは最高に雰囲気が良かったのだろう。バザール内ではアフガニスタン難民の姿も多く見られた。もともとペシャワールはアフガニスタン人と同じパシュトゥーン人の町なのだ。

この時は、ペシャワール旧市街のチョークヤードガルとカイバルバザールの中程にあるキサ・カワニ(ハワニ)バザールに面したホテルの2階に滞在していた。部屋にはL字型にベランダがついていて、そこから朝な夕なにバザールを上から眺め見ることが出来た。通りを挟んだ向かい側にモスクがあって、夜明け前から鳴り響くアザーンで目が覚める毎日だった。

ペシャワールの夏は非常に高温になることで知られる。最高気温は真夏の6月がもっとも高く、気温40 ℃を超える日が続き、10月に入ってやっと35 ℃を下回る、という感じで1年の半分は猛烈に暑い。パキスタンの大部分がモンスーン気候に含まれるなか、ペシャーワル以北はこれに含まれない。年間を通じて雨は少なく、乾燥した日が続く。ペシャワールの夏の暑さは、僕の経験でも南インドやタール砂漠、サハラ砂漠よりも数段暑く記憶に残っている。
日中汗をかいた身体を水シャワーで冷やそうと思っても、シャワーヘッドから出てくる「水」は「熱湯」で、夜になり屋上のタンクに貯められた水(熱湯)が冷えるのを待たないと浴びれないないほどだった。


AD1世紀頃、北西インドにクシャーン人が侵入、マウリア朝を滅ぼしプルシャプラを都とするクシャーナ朝を開くが、クシャーナ朝の本体はカイバル峠を越えた北側の中央アジアにあった。
それ以前よりガンダーラ地方(現ペシャワール盆地)にはバクトリアや匈奴、大月氏などがたびたび侵入して来ていた。アレキサンドロス帝国の流れを汲むギリシャ人の王国バクトリアの人々によりこの地にヘレニズム文化がもたらされ、この地域一帯にガンダーラ美術が花開くことになる。クシャーナ朝の時代、仏教美術・仏像制作が盛んに行なわれ、ガンダーラ仏教美術の一大ムーブメントが起こった。

クシャーナ朝はAD2世紀、大乗仏教の保護者であったカニシカ王の治世時に最盛期を迎え、長安とローマを結ぶシルクロード東西交易路をおさえてプルシャプラも大発展することになる。クシャーナ朝がAD3世紀にササン朝の第2代シャープール2世に破れ、本体である中央アジアの地を奪われ衰退するまでの200年間がそのまま、ガンダーラ地方のヘレニズム美術の最盛期と重なる。

唐代の入竺僧玄奘も、インドへ向かう旅(629年~645年の17年間)の途中、カイバル峠を越えこのガンダーラ・プルシャプラを通っていったはずだ。ただし、すでにその頃のガンダーラ一帯は、仏教が繁栄していたかつての面影はなく、一千箇所ほどあったという仏教寺院は、すっかり朽ち果てていたと伝えられる。玄奘は北インド各地を旅し仏跡を尋ね歩きながらナーランダー僧院を目指したが、そのころのインドは、グプタ朝からハルシャ・ヴァルダナ朝に代わっていて、仏教は保護されていたが新しくヒンドゥー教が台頭してきた時代だった。

クシャーナ朝期にガンダーラで制作された仏像等は、ギリシャ系ヘレニズム美術の強い影響下で作られていて、写実的な作風を特徴としている。一方、ガンダーラとほぼ同時期に、インドのマトゥラー(デリー南東に位置する都市で、カニシカ王の時代、副都とされた。)でも盛んに仏像が作られた。こちらは、ガンダーラ美術とは対照的にがっしりしたフォルムを持つ彫像などインド固有の伝統的デザインによる純インド的な作風が特徴だ。

ペシャワール博物館(Peshawar Museum)にはガンダーラ周辺で発掘された遺物や仏像、仏伝図の石板や装飾の数々が展示されている。
博物館は旧市街近くにあって、東西に長く延びるキサ・カワニバザールを西に進み、カイバルバザールを通り過ぎ、鉄道をオーバーパスした左側に位置している。1985年当時、入場料は一人1Rs(約15円)だった。

ペシャワール博物館は1907年のイギリス領インド帝国時代に、ヴィクトリア女王を記念する「ヴィクトリア ホール」として建設された由緒ある建物だ。
「仏陀苦行像・ 断食する仏陀像」というガンダーラ美術の至宝のひとつがこのペシャワール博物館に展示されている。完全な姿が残されているラホール博物館のもう一体のものと違い、失われている箇所も多いが、落ち窪んだ眼、助骨の上に浮かんだ血管まで透けて見える身体が、厳しい修行をやり抜いた仏陀の強い精神性を表していて目を奪われる。
1985年当時、博物館内には冷房設備などはもちろん無いので、見る側もけっこう修行のようになっていたのを思い出す。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録10 … 海外・WanderVogel2021/08/31

Besi Sahar
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番外編:Besi Saharの町の様子 2018年12月

標高2,600mのKoto村でうまくチャーター出来たオンボロジープで、標高750mのBesi Saharの町まで一気に下る。

Marcyangdi Khola沿いに延びる路は昔からの交易路であり、トレッキングのルートでもあった。30数年前、僕はここを何日もかけて歩いたことがあるが、荷を背負わされたロバとすれ違うのもやっとの狭い路だった。その道も今ではジープでなんとかかんとか走れるようになって、ベシサハールからマナン村まで1日で走れるそうだ。僕が歩いたときは、ポカラからマナンまで2週間かかったことを考えると隔世の感がある。
その路を拡幅し、車やバス、トラックが安全に通行出来るような道にするための工事が現在進められている。今はまだ建設中なので、かろうじて車が走れるといっても路面状態などはとてもひどい状態で、2時間も車に乗っていると身体はガタガタ、心底ヘトヘトな状態になる。

そんな状態で2日間、なんとかBesi Saharまで移動してきた。車を降りたところの茶屋でまずは本物のマサラティーとポテトサモサを2個食べる。
いや~ 美味しい!今までの食べ物はなんだったんだろう?と思えるほどだ。

なんだか急に都会が懐かしくなり、このままKathmanduへ一気に戻ってしまおうか、とも思ったが、身体は限界まで疲れているので、ここに一泊して予定通り明日の朝Kathmanduへ移動することにした。帰りの飛行機は明後日のお昼出発なので、ここまでくればもう安心だ。

町の食堂で昼食を取る。なんとチキンバーガー/wフレンチポテトなるメニューがあったので、思わずオーダーしてしまう。ブラックコーヒーはインスタントだったが、ハンバーガーは割とイケた。ハンバーグがパコラ風ではあったが、これはネパール風ということだな。

昼食後、ひとりBesi Saharの町の中を散策する。町のメインロードを端から端まで歩いてみる。
1時間も歩くと町の外に出てしまうので、町と言っても大きくはないが、このへんでは一番の都会と言うことになる。
ネパールやインドの地方都市の町の雰囲気満載で、若いころの貧乏バックパッカー時代の懐かしい感覚に包まれた。

(写真:ベシサハールの町のメインストリート。ネパール風あり、チベット風ありの楽しい町並み)
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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 9 … 海外・WanderVogel2021/08/30

ネパールでの代表的な食事ダルバート・豪華版
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2018年12月
大きな岩の陰に隠れるように造られた主屋に出向き、かまどの脇に陣取り、チベッタンパンケーキとマサラティーの朝食を取るのだが、こんなこと言っては大変申し訳ないのであるが、このルート上で飲む「マサラティー」はどこで飲んでもクソ不味かったなぁ!
やはりチベット文化圏でマサラティーやダルバートなどインド・ネパール料理を頼むこと自体に無理があったのかもしれないが、ここまで極端にひどいのも珍しい。

今日は高度にして400m下り、行きに車を降りたkoto村までが行程なので、歩く距離が短い。朝はのんびりして、9時過ぎになって陽が射し込んで少し暖かくなって来てから出発する。
いままでの赤茶けた風景とは一転して、この一帯は緑が多い。ヒマラヤゴヨウとヒマラヤハリモミの樹林帯が広がっている。その中をテンポ良く鼻歌まじりに下って行く。谷幅も少し広がってきて川の流れも穏やかになってきた。水の色がミルクコーヒー色なのは変わらないけど、、
Naar kholaには昔ながらの簡単な木の橋も何本か残っている。どの木橋も一見しただけでかなり危なっかしいので、僕は頑丈そうな鉄製の吊り橋を選んで渡るようにしている。

昼過ぎにKoto村に無事に到着。行きの時にくぐったチベット風の門がゴールだ。
その脇にあるチェックポストで再びPermitのチェックを行なう。係官は総じてみな親切だった。

その後、Koto村にある一軒のレストラン&宿屋に入り、まずは昼食を食べることにする。スチームドベジタブルモモ(10個)とトマトスープをオーダーする。
モモは水餃子のような感触の蒸しギョウザで、付け合せのタレよりも持参した日本の醤油の方が合う。久々に料理らしい料理でした。完食です。

ここでまずやることは、往路でも一泊した大きな町「Besi Sahar」まで載せてくれるジープの手配をしなければならない。僕が食事をしている間にガイドのラムさんがジープ(乗合いまたはチャーター)の手配に走る。

ここまで来ればまずは安心だ。無事にジープをチャーターすることが出来、Besi Sahar途中のJagat村で一泊し、翌日Besi Saharでさらに一泊、そこからは乗合バスでカトマンズに戻ることが出来た。

トレッキング終了後、ガイドのラムさん、ポーターをしてくれたマダンくんと今回のコース上での食事の話をしたのだが、ラムさんたちも今回食べたバッティでのダルバートやツァンパはどこも「とっても激マズ!」だった、とのこと。
地元ネパール人にとっても「チベッタンの作るネパール料理」は激マズ!だったのか。今回はガイドたちにもいらぬ苦労をかけてすまなかったなぁ。

というわけで、トレッキング期間中の食事に関しては確かに最低の旅だったが、アップダウンを繰り返すたびに次々に現れる荒削りな赤土色のうねる大地、遠くには雪を頂くチベットレンジ、チベット族の村の持つ独特の景観・風情、高い標高と厳しい自然環境下での暮らしぶりなど、圧倒的な迫力に言葉を無くすほど感動した旅でもあった。
当初予想した以上に交通費や許可費用に出費がかさんでしまったが、無理して行って良かったなぁ。ほんと素晴らしい旅だった!
それと、病気にならずに良かった。

(写真:ネパールでの代表的な食事、ダルバート、豪華版)
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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出7 … 海外・WanderVogel2021/08/28

クーンブ地方のトレッキング
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写真:2017年冬、クーンブ地方エベレスト街道のトレッキング途上にて、新旧2本の吊り橋の掛かるドードー・コシ渓谷をバックに。渓谷の向こうにピョコンと頭を見せているのはナムチェバザールの奥にそびえるクンビラ山。

僕はシルクロードを放浪する、をメルクマールとして旅を続けているが、時にはそうではないところを歩く時もある。

東部ネパールの北部国境に接するクーンブ地方は、二つの大きな谷からなる。
ナムチェ・バザール(標高3,440m)を基点に、一つは北東方向ヘ延び、世界最高峰に達するドードー・コシ水系、もう一つは北西方向ヘ延びるボーテ・コシ水系である。

ボーテ・コシ川沿いの道はナンパ・ラ(5,850m)峠でヒマラヤ山脈を越えチベットへと続く古くからの交易路である。
シェルパ族の本拠地ナムチェバザールは、チベットに通じる古くからの通商路上に位置し、今でも何隊ものヤク(チベット牛)の隊商が行き交い、物資が運ばれているという。またこの道は、1959年のラサへの中国人民解放軍軍事侵攻の際に多くのチベット人がネパールに逃れて来た道のひとつでもある。

ただし、チベットとの交易が盛んな時期であっても、交易の実際はチベットから安い羊毛を取り寄せ、ナムチェで絨毯に織って加工し、南に運び売っていたり、チベットから運ばれる岩塩が主な交易品であった程度で、逆に輸出していたものはゾウ(ヤクとウシの混血種)と穀物ぐらいだったようだ。交易と言ってもその規模は決して大きくはない。
現在ナムチェバザールで開かれている週に一度のバザールにしても、開かれ始めたのはせいぜい50年ほど前のことであり、それ以前には今のような開かれた定期市はなかったという。そのころは今のような観光・交易もなく、住民も少なくみんな一応に貧乏だったようだから、他のヒマラヤ越えの主要交易路と比べると交易規模はかなり小さかったと想像出来る。


一方、いわゆる「エベレスト街道」と呼ばれる有名なトレッキングルートは、交易路のあるボーテ・コシ川沿いではなく、ドードー・コシ川沿いに遡行して行く。その先、エベレストを中心として中国国境との間にまさしく「壁」の様に立ちはだかる大山脈には、その向こう側に広がるチベット高原へと抜けていく隊商路・交易路は存在しない。それほどまでにこの「壁」は絶望的に高く厳しい。

アンナプルナ方面/ムスタン・ドルポやランタン方面などと違い、クーンブのエベレスト街道に点在する村々はチベット仏教寺院を持ついくつかの村を除き、エベレスト方面への観光トレッキングのための村・キャンプといっても間違いではないだろう。少なくとも現在の村の姿からは往時の雰囲気を想像することは出来ない。
圧倒的な迫力でせまるエベレスト山塊の姿には神々しさを感じるのだが、ここでの村の営みからは交易路上の村の持つ魅力を感じることは残念ながら無い。


エベレスト街道のトレッキングは小さな飛行場のあるルクラから始まる。
カトマンズから同行したガイドは、まずはポーターを手配することが最初の仕事になる。
ルクラからナムテェまでは2日程度かかるが、周りにはヒマラヤの濃い樹林帯が広がっていて、その中に気持ちの良い山道が続いている。この雰囲気を味わうのもヒマラヤトレッキングの魅力のひとつだ。(雨期にはヤマビルが多くて難儀するらしいので、歩くのはやはり乾期/冬期が良いだろう。)

ルート上に点在する集落の近くに広がる森林は、モミ、マツを主とする針葉樹林であり、建築用材や燃料としても使われる。ほかに、シャクナゲ、カンパ(ダケカンバやシラカンバといったカバノキ科の高木)などもよく目に付く。
ほかにも日々の生活の中で毎朝の祈りの時に焚かれ、香りの良い煙を出す葉として知られるビャクシン(ヒノキ科のネズ、ジュニパー松)なども見られる。

ナムチェバザールから先はそれまでの樹林帯とは対照的に、これぞ「ヒマラヤ」という壮大で神々しい光景が眼前に広がり、岩稜の岩肌が美しい雄大な自然景観と地球規模の造山活動の有り様を堪能することが出来る。

ここでは誰でもその名を耳にしたことのある有名な山々のダイナミックな姿をパノラマで楽しむのに徹して歩こう。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出6/2 … 海外・WanderVogel2021/08/23

ペシャワールの穀物バザール1979年12月
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写真:1979年12月、カイバル峠を越え、パキスタン・ペシャワールに無事に到着し、市内の穀物バザールでのスナップ。チャールポイに座り現地の人たちに囲まれながらチャイをごちそうになっているところ。カブールで買った皮の長靴を履いている。

ペシャワールはペルシャ語で「高地の砦」の意味。カイバル峠(標高1,070m)からはわずか50kmの地点にある紀元前から栄えてきたシルクロードの要衝であり、ガンダーラ地方の中心地である。カニシカ王で有名なクシャナ朝の時代プルシャプラと呼ばれた古都。

- - 6/1の つづき - -
ソ連軍による軍事介入から現在に至るまでのアフガニスタン国内の混乱の歴史は、様々なメディア・ニュースなどで報道されているように、さらに混迷の度合いを色濃くしていくことになる。


1979年以降、ムジャヒディン(ジハード/聖戦を遂行する者)諸派はパキスタン軍統合情報局などからの支援を受けて、共産主義政権とソ連軍に対し激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャヒディンには、イスラム世界の各地から志願兵として多くの若者が集まってきたが、その中にはあの有名なオサマ・ビン・ラディンもいた。
実は、アメリカ合衆国もCIAを通じてムジャヒディンに武器や装備、活動資金をパキスタン経由で極秘に提供していた。また、ムジャヒディンはパキスタンと仲の良い中国からも武器や訓練で援助を受けていた。これは中国とインドが対立していた関係で、インドと領土問題で火種を抱えるパキスタンが中国と友好関係を維持していたことによる。まさしく「敵の敵は味方」の論理である。

1988年にソ連軍が撤退を開始すると、ムジャヒディン各派はアフガニスタンでの主導権争いで対立、軍閥化していった。
ムジャヒディンを支援していたパキスタン軍統合情報局が支援先をタリバンに変更すると、対立していたムジャヒディンの諸派は今度は連合し北部同盟としてこれに対抗した。
というように、個々の利益にのみ関心を示し烏合集散を繰り返すどこぞの国の野党諸派と同じように、もう何が何だかかわからないグチャグチャぶりで、さらにわけの解らない状況が続くことになる。

ソ連軍完全撤退後の1992年にアフガニスタンの共産主義政権が崩壊すると、カブールは一時ムジャヒディンの手に落ち、その後タリバンがそれに取って代わった。タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)期も引き続き首都は一応カブールとされたが、政治の中心はパシュトゥーン人主体のタリバンにとっての本拠地である南部のカンダハルだった。

タリバンは厳格なイスラム法の遵守を強要するだけでなく、文化浄化(積極的な文化財破壊行為)も行っている。2001年3月、タリバンはバーミアンの大仏像の足元に爆弾を仕掛け爆発させ、大仏像はがれきの山と化した。バーミヤン渓谷の岩肌を掘り込んで造られた大仏像は、一帯がシルクロードの中継地としてにぎわっていた6世紀ころから建造が始まったとされる、アフガニスタンの人々だけでなく全人類に取っても貴重な文化的遺産だった。
タリバンはこの貴重な大仏像を含む数多くの文化遺産を破壊し尽くし、さらにその様子を全世界に映像配信するという暴挙までも行なっている。

ユネスコは仏像の周りの岩壁に残る壁画で装飾された洞窟群と、仏教寺院を含むバーミヤン渓谷全体を2003年に世界遺産に登録したが、遺跡は壊滅的な被害を受けていて、大仏像のみならず石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。


2001年に入ると今度はアメリカがアフガニスタンに侵攻することになる。発端は2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロだ。
首謀者とされたオサマ・ビン・ラディン率いる国際テロ組織アルカイダは、アフガニスタンに根拠地を持っていた。そしてそのアフガニスタンを広範囲に実効支配していたのがタリバンなのだ。アメリカ政府は、タリバンがアルカイダと連携し、保護していたとみなした。米軍による激しい空爆によって、同年冬にはタリバンは首都カブールを放棄し、これに代わって反タリバン勢力の北部同盟がふたたびカブールを支配下に治め、アメリカを主体とする国際社会の支援を背景に、同年12月にカルザイ大統領率いるアフガニスタン・イスラム共和国が発足した。

とは言え、各派その思惑が全く異なる者同士が単に反タリバンという旗印に集まっただけの組織である「北部同盟」に、国を導く力や理念などあるわけも無く、ただただ混乱しグダグダになることは解っていたことだった。
北部同盟主体の新政府が出来た後も混乱した国内情勢は一向に好転せず、政府内での不正と腐敗、ムジャヒディン諸派同士の足の引っ張り合いに終始し、アフガニスタン全土を実質的な支配下に置いていたのは相変わらずタリバンという有様だった。
そんな中、2019年に長年に渡って草の根的にアフガンの人々を支援し現地でも尊敬を集めていた中村哲医師が殺害されるという痛ましい事件まで起こってしまった。

2001年から今に至るまでの20年間、米国や国際社会が現政権を必死に支援し続けても、アフガンの民主化や治安状況の改善は一向に進まない。アフガン政府内に広がる腐敗や無能力ぶりはカルザイ大統領からガニ大統領に代わっても改善すること無く、見通しが立つことすら無い状況にアメリカ政府も完全に嫌気がさし、ついにアメリカ軍の完全撤退が実施されることとなった。

アメリカ軍の完全撤退は今年(2021年)9月11日までにとされているが、撤退の準備が始まるとタリバン勢力は政府正規軍と戦火らしい戦火を交えることも無く、あっという間に首都カブールを掌握、あっけなく陥落させてしまった。

今後、正式(?)にタリバン政権が樹立されることとなるのだろうが,報復という名の虐殺、民族差別による浄化作戦、無意味な破壊行為が各地で大規模に繰り広げられるのは必至であろう。

ふたたび悲劇は繰り返される。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出6/1 … 海外・WanderVogel2021/08/22

1979年12月 Kabul市内のモスクにて
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写真:1979年12月、ソビエト軍侵攻直前のカブール市内のモスク内でのスナップ。

1979年(昭和54年)冬、僕は革命で混乱していたイランから逃れ、陸路で国境を越えアフガニスタン側の検問所イスラムカラ(Islam Qala)からアフガニスタン国内へと入った。

この時期アフガニスタンの入国VISAを取得するのにけっこう難儀したのを覚えている。
ギリシア・アテネのアフガニスタン大使館とトルコ・イスタンブールのアフガニスタン領事館で入国VISA申請にトライするがダメで、イラン・テヘランのアフガニスタン大使館でやっと取得することが出来た。
イラン革命まっただ中のイラン国内では、ちょうどその時(1979年11月)テヘランにあるアメリカ大使館の占拠事件が起きた。アメリカ大使館員とCIA関係者らが人質になるというアメリカにとって前代未聞の汚点・大事件が発生し、イラン国内では反アメリカの機運が最高潮に達した。
そういう時期にもかかわらず、アフガニスタン入国VISA申請料の支払いはUS$キャッシュオンリーで、他の通貨での支払いは頑として受け付けてもらえなかったのを印象深く覚えている。申請料は正確に覚えていないが、他国のVISAに比べるとけっこう高額だった気がする。

その頃、中近東や南アジアを旅するバックパッカーは、ドルキャッシュ(当時1$=¥230〜¥235)はある程度は持っているのが大常識ではあったが、大半はAmexやBank of AmericaあるいはThomas Cookなどのドル建てのトラベラーズチェックで旅のお金を持っていた。ドルキャッシュはいざという時の為に出来るだけ使いたくなかった、というのが正直なところだった。(闇両替でさえTCを使ってしたくらいだった。)
クレジットカードやキャッシュカードなどは姿すら無かった時代の話だ。


アフガニスタン国内では、現地の人達に混じってオンボロなローカルバスに乗っての旅であったのだが、反政府ゲリラ・ムジャヒディンからの攻撃を避けるためトラックなどと一緒になり長いコンボイを組んで、前後に政府軍の装甲車を配しての移動であった。
木製フレームのバスは半分くらいの窓にガラスが無く、ベニヤ板で応急修理されていた。
バスの横っ腹にはキレイに並んだ機銃掃射の穴の跡が数列空いていて、やけに埃っぽい砂まみれ・土まみれの車内であったことを思い出す。
要衝と思われる場所では、道の両側にソ連製の旧式のT−34中戦車が並んでいた。


アフガニスタンの首都カブールの支配者は古くは、サマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移していくが、カブール自体は「村」の域を出ず都市化されてはいなかった。その後のチンギス・ハーンからティムールへと続くモンゴルの時代でも大きな変化はなかったが、16世紀前半にムガール帝国創始者のバーブルがカブールを一時期「都」としてからは、この町の戦略的重要性は高まっていく。

近代に入り(ロシアの南下政策に対抗するため)一時イギリス軍の占領下に置かれるが、1919年アフガニスタン王国として独立。1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治したが、アフガニスタンはもともと部族社会で成り立っていて、地方の権力はそこの部族の長が依然握っていた。
そのような中、ザーヒル・シャーの従兄弟のダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のため国外に出た隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させてしまった。しかし、1978年に今度はダーウード自身が暗殺されてしまう。代わって共産主義政党のアフガニスタン人民民主党が政権を掌握するのだが、政党内の派閥対立により、1979年夏にはアフガン全土で反政府ゲリラ(ムジャヒディン)が蜂起、反乱や衝突が多発、ほぼ全土が抵抗組織の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請するに至った。

僕がアフガニスタン国内に入ったのがちょうどこの時期だった。

1979年12月初め、ソビエト連邦(USSR、ソビエトユニオン、ブレジネフ時代)によるアフガニスタン軍事介入・侵攻が始まり、またたく間に北部地方は掌握されていった。12月23日には首都カブールにソ連軍(KGB)が侵攻しそのまま占領、カブールに突入したKGB特殊部隊はこともあろうに軍事介入を要請した張本人である人民民主党政権の現大統領を襲撃し暗殺、新たな大統領とすげ替え親ソ連の共産主義政権を樹立させてしまう。
アフガニスタンは地理的にソ連にとって要衝の地であり、首都カブールを押えることは南アジアの安全保障上でも大きな意味があった。ソ連軍は1988年にアフガンから撤退するまでの10年間そのままカブールに駐留することとなる。

ソ連がアフガニスタン軍事介入に固執したわけはもうひとつある。同時期に隣接するイランがイラン革命によってパフラヴィー王制(イラン最後の皇帝)が倒され、シーア派のイスラム指導者ホメイニ氏を中心としたイスラム原理主義の新政府が樹立されたことに危機感を持った。もし同じようにアフガニスタン国内でもイスラム原理主義の革命が起これば、宗教や民族問題で国内に火種を抱えていたソビエト連邦国内にも飛び火する危険性が大きかったからだ。その後に勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのがソ連であったこともそれを物語っている。


そんな時期に僕はひとりアフガンを旅していたのだが、幸運だったのはソ連軍によるカブール陥落直前に首都を離れ、ジャララバードを経てカイバル峠を無事に越えられたことだろう。
そして、最大の不幸は、もう1年早く休学して出発していたならば、アフガニスタンの北部地域に位置するバンディ・アミールやマザリシャリフ、バーミアンといった夢にまで見ていた湖を都を遺跡を歩き回れたのになぁ、、と後悔してもしきれない気持ちを今でも持っている。


- - 6/2へ つづく - -

ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 8 … 海外・WanderVogel2021/08/17

いくつかの宗教施設群で構成されたNaar Phedi村
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写真:いくつかの宗教施設群で構成されたNaar Phedi村を対岸に見る。2018年12月

比較的開けた丘の上にある標高3,800mのKhyakku村だが、朝のうちは岩山の陰になってしまいなかなか村まで陽射しが落ちて来ない。
(いまさらながらだが、このへんでは1軒でも家があれば「村」と呼ぶ。)

標高が下がってくると、周囲に野生のシカの姿が見られるようになる。姿は見られなかったが、足跡でキツネやウサギが歩き回っているのがわかる。ヤクはここではすでにお馴染みの動物になってしまった。標高が下がってきたので、赤茶色一色の景色の中に灌木の枯れた緑色が混じるようになってきた。

Naar村への分岐の吊り橋があるNaar Phediまで歩いてきた。(写真)チベット仏教施設だけでまとまっているNaar Phedi村は、ゴンパや修道院、巨大なチョルテンなどを抱えた宗教コンプレックスを構成している。
ふたつの支流に挟まれた(写真)正面の山の向こう側にNaar村(標高4,200m)はある。

今回は時間的な制約でNaar村には行けなかったが、道は標高5,320mのKang La (峠) を越えてMarcyangdi Khola側にあるNgawalに通じている。Ngawalからは歩き1日の行程で、Manangに達する。時間と体力があれば、この魅力的なルートも歩いてみたかった。

標高3,560mにあるMeta村まで下り、人の居た1軒の民家を見つけ、そこで早めの昼食を作ってもらうことにした。手間の掛かるものをお願いすると時間がかかるので、3人とも同じ(袋入りのネパールラーメン)ララヌードルスープを作ってもらい、ブラックティーで簡単に済ます。

ここからの道は、崖から流れ出た水で地面がガチガチに凍り付いていて、岩天井からツララのぶら下がった滑りやすい滝裏をガイドに手を引かれながら恐る恐る通過する。
凍りついて危ない岩壁をへつる道を通り抜けると樹林帯に入る。やっと標高が下がってきたことを実感する光景なのだが、風はまだ冷たくなかなかハードシェルのジャケットが脱げない。
相変わらず、下は冬用の山用タイツに冬用トレッキングパンツ、上は冬用の山用シャツにパタゴニアのR1ミドルウエア+ダウンジャケットの上からハードシェルという完全防寒の出で立ちだ。ウールの手袋だけでは指先が凍える。頭にはバラクラバ+ウールの帽子とこれまた本格的な冬山装備だよ。
標高を下げているというのに、4,000m時点よりも寒く感じるのには閉口する。

日暮れ前に標高3,000mのChhongcheのバッティに到着。行きの時に泊まった同じバッティだ。というよりも、人がいるところがここしか無いのでこちらに選択肢などはまったくない。
部屋のベッドにシュラフを用意して少し休憩しようと思うのだが、いびつな石を積んだ石壁にトタン屋根を載せただけの粗末なビバーク小屋以下の家屋なのでとうぜん室温と外気温は一緒だ。いびつな石の壁の間からはたえず冷風が吹込み、風通しは抜群だ!
コップにお湯を入れて傾いたテーブルの上に置いておくと、いつの間にか凍っていた。

あまりの寒さにかまどのある主屋に行くのだが、娘三人いる一家とガイドとポーターと僕が入ると部屋は超いっぱいになり、なんとも言えない状況になってしまう。とはいえ、そこで夕食を食べるしかないのだ。当然、作れる料理にあまり選択肢は無い。
このバッティには電気は来ていないので、かまどの火だけが照明であり暖房だ。標高は下がってきたとはいえ、まだ3,000m近いので陽が落ちると寒くてかまどの前から動けない。
かまどの前で油多めのベタベタしたチョウメンとベジタブルスープをヘッドランプの明かりの中で食べる。最後はお茶で流し込んだ感じだが完食した。大量のニンニクが高山病予防に効果があるということだが、口の中が強烈にニンニク臭くてたまらない。

ガイドのラムさんに毎回湯たんぽを作ってもらい、寝床のシュラフの中は今夜も極楽だ!
エアマットも威力を発揮しているし、この中だけは天国だ。

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