シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出3 … 海外・WanderVogel2021/07/25

ギリシア・ミストラ 1979秋
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写真は1979年秋に訪れたギリシア・ペロポネソス半島の南、ラコニア平原にあるビザンチン時代の村ミストラス。パンタナサ尼僧修道院と眼下に広がる広大なオリーブ畑

ギリシア・ペロポネソス半島の中ほどに、ビザンチン時代の教会や修道院が残っている遺構がある。ミストラ(ミストラス)だ。

ペロポネソス半島でどうしても訪ねたい場所が2つあった。ひとつはミケーネ、そしてもうひとつがこのミストラスだった。

オスマントルコによるビザンティン帝国コンスタンティノープル陥落(1453年5月29日)後も、しばらくミストラは滅ぶことなく存続し続けた。
1825年、ギリシャ独立戦争の際、オスマン帝国のアルバニア軍によって徹底的な攻撃を受けてミストラスは壊滅、廃墟と化し現在に至る。

ミストラスはタイエトス山の中腹から山頂にかけての急斜面に築かれたビザンツ時代後期の城塞都市だ。
当時の宮殿や村人の住んでいた家屋などはあらかた廃墟となってしまっているが、アギア・ソフィア教会、聖ニコラウス教会、パンタナサ教会、聖ディミトリオス教会など教会施設(ギリシャ正教会)はかろうじて残され建物としての姿を保っている。

僕は1979年の秋にここを訪れた。
ミストラスに一番近い村であるスパルティ村に宿(YH)を取り、そこからローカルバスで向かった。
バス停は遺跡からずいぶんと離れたところにあった。遠くに見えるタイエトス山を目指して広大なオリーブ畑の中を一人でとぼとぼと歩いた記憶がある。
不自然にねじ曲がったオリーブの老木が、まるでマニエリスムの絵画のようで気味が悪かったのを覚えている。

穀物がまったく自給出来ないギリシア地方にあって、ここ(ラコニア平原)だけは紀元前から耕作が盛んな地域だったと言う。アテネ(イオニア人)やテーベ(アイオリス人)など穀物をオリエントからの輸入に頼っていた古代ポリス社会にあって、ドーリア人であるスパルタだけは例外的に穀物の自給が出来る農業ポリスを形成していた。
スパルタと聞くと、ギリシャ世界で最強の陸軍兵士の国とか厳しいスパルタ教育の軍事国家というイメージがあるが、意外に農業国家でもあったのだ。もっとも、実際に農業に従事していたのは征服民族のドーリア人ではなかったのだろうけど。


遺跡には人っ子一人いなかった。崩れた廃墟の続く急勾配の坂道を上へ上へと登って行くと、写真にある「パンタナサ教会/尼僧修道院」(14~15世紀建造)に行き着いた。
建物は純粋なビザンティン様式とは少し違い、イタリア建築(初期ルネッサンス)の影響が認められるということだが、全体の持つ趣きはビザンチン建築そのものだった。
美しいポルティコを持つテラスからの眺めは見事で、眼下には「ミストラス様式」と呼ばれる独特のスタイルで建てられた美しい教会、聖ディミトリオス教会が見えた。

さらに上にある高台からは、どこまでも続くオリーブ畑の向こう側にラコニア平原とスパルティ(スパルタ)の町が見渡せた。


その後、ミストラスの遺跡群は、1989年に世界遺産「ミストラスの考古遺跡」に登録されることになる。

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