Deep Purple - Scott Hamilton … Jazz music2021/08/14

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今日は横浜市長選の期日前投票に出掛けるくらいで、一日じゅう家で籠城生活を過ごしている。僕はこういう高い湿度で蒸し蒸しする日が一番苦手で、カラカラに乾いた高標高の世界が妙に懐かしい。

期日前投票所は区役所内にあるので自宅から平潟湾沿いの遊歩道を歩いて向かう。遊歩道脇ではザクロやセンダンが実を付けている。雨が一瞬止んでいるせいだろうかツクツクボウシがうるさいくらいに鳴き始めた。濡れたカツラの落ち葉からは猛烈に醤油煎餅の匂いが立ちのぼる。
平潟湾に注ぐ侍従川では数人の釣り人が釣り糸を垂れている。増水して少し濁った川面には大きな石鯛やボラ、小魚が泳ぐ姿が確認出来るが、見える魚は釣れないと言うから釣り人もあまり釣れていなさそうだ。


雨の土曜日、家でyou tubeを聴いている。
Nicki Parrott - Deep Purple:https://www.youtube.com/watch?v=GSIxUycG9zQ&list=RDGSIxUycG9zQ&start_radio=1
サックス:Scott Hamilton、ウッドベース:Nicki Parrott、ピアノ:Rossano Sportiello
このDeep Purpleは、ジャズ調にアレンジされたインストルメンタル曲。

「ディープ・パープル」は、ピアニストのピーター・デローズが1930年代に作曲した曲で、Ella FitzgeraldやHelen Forrestらにも愛された。原曲は当時のアメリカンポピュラー音楽、Dance Music。ロマンチックなバラード曲で、ベーブ・ルースもお気に入りの曲だったようだ。

スコット・ハミルトンは僕の大好きなサックス奏者なのだが、歳を重ねて円熟しさらに磨きがかかった、と言うかしっとりとしたいぶし銀の鈍い光を放っている。僕はそれほど音楽に詳しくは無いが、30年代、40年代の古いジャズは割りとよく聴いている。スコット・ハミルトンのサックスは、気をてらったアレンジをすることも無く昔風のオーソドックスな演奏スタイルを守り通していて、ホッとリラックスさせてくれるのだ。

「スコットの真骨頂はバラードにある。深い響きをたたえたトーンと歌心あふれるフレーズで、聴き手を一気に30年代へとタイム・スリップさせてしまう。また、アップ・テンポの曲では余裕のある軽快な演奏で、スウインガーぶりを発揮する。」というようなことを北村英治氏がどこかで書いていたが、ほんとうにそういう気持ちいい演奏をするサックス奏者だなぁと思う。このyou tube上でもそういうメロウな演奏を聴かせている。

演奏中のNicki Parrottの表情もステキだ。音楽を楽しみながらも、変に先走ることも無く演奏者それぞれが最大限にパフォーマンスを引き出し、この音楽をより美しいものに作り上げていこうとしているように感じる。何度でも聴きたくなる良い演奏だ。

Deep Purpleは、ロックバンドの名前にもなった。
ブリティッシュロックバンドのディープパープルは、この曲がギタリストのリッチー ブラックモアの祖母のお気に入りだったため、デローズのヒット曲にちなんで名付けられたと言われている。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出5 … 海外・WanderVogel2021/08/15

ウルムチのナン屋 1984年冬
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写真:1984年秋 新疆ウイグル自治区ウルムチのナン屋の店先

旅での楽しみのひとつに現地での「食事」がある。
でも、場所によってはこの「楽しい食事」が苦痛に変わることもある。

特に土漠地帯(イスラム圏)は気候も厳しかったし、食事環境も過酷だった。
写真は、新疆ウイグル自治区にある「烏魯木斉・ウルムチ」という地方都市の街角のナン屋(パン屋)の様子。
ウルムチは、北にジュンガル盆地、南に天山山脈に挟まれた乾燥した地にある。シルクロード・東西交流で栄えてきた天山北路の要衝で、歴史のある古都だ。
店の中のカマドで焼き上げた数種類のナンを店先に積み上げて売っている。形は違えどだいたいみな同じ味だ。酵母を使っていないので総じて硬い。

ナンの脇には半身に切られたヤギの肉がぶら下がっている。先ほど屠殺され皮を剥かれ柱にぶら下げられたもので、当然これも売り物である。
1970年代、1980年代は中国西域地域では一般には「冷蔵庫」といったものが普及していなくて、肉類(魚も含む)は基本的に屠殺してすぐに販売・調理するものと決まっていた。なので、肉屋の店先と売られていく動物の待機所とは直結していた。

パキスタンやイランの土漠地帯ではそれでもまだ、ヤギ肉やヒツジ肉の他に副産物としてヨーグルトやチーズが作られていて、調理素材のバリエーションがいくらか広がるのだが、新疆ウイグル自治区では基本的に食事と言えば、シシカバブとナン、チョウメン(ヤギ肉入りの焼きそば、のようなもの)、刀削麺(ヤギ肉風味のスープに入った短い麺、のようなもの)、モモ(ヤギ肉入りの包子)などで、それをローテーションで毎日食べることになる。

1週間、2週間であれば「若さ」で乗り切ることも出来るが、1ヶ月、2ヶ月と続くとなかなか辛いものである。
特にヤギ肉はイカンな。一度その独特の匂いが気になり始めると、その匂いだけで身体が受け付けなくなる。

1980年代は妻と2人で旅をしたこともあって、いくら元気な若い女性であったとしても、さぞかし辛い旅であったことだろうなぁと、60歳を過ぎ今さらながら懺悔するのである。
(そこへいくとインドなどは天国である。当時でも、インドには「カレー」しかない(つまり、マサラの匂いのしないものは無い)と言われていたが、それでもバリエーションがあるので救いがある。)


西域土漠地帯の食べ物で唯一の救いは果物だ。
総じてどこでも果物(あるいはドライフルーツ)は豊富で、数種類のブドウ、フットボール大のメロン、ザクロ、アンズなど美味しい果物がたくさん売られていて、市場でも露天でも簡単に手に入った。ただし、すべて常温で売られているので温かい。
なので、いったん宿に戻って冷たい泉の水で冷やして食べるとこれがまさに「絶品」なのである。
ついでに言うと、200年以上前に紀昀(きいん)も記しているように、ブドウなら土魯蕃(トルファン)産、メロンなら哈密(ハミ)産が一級品だ。

烏魯木斉(ウルムチ)の町の南側には4,000~5,000mを越える天山山脈がそびえ、その高峰は夏でも雪が消えることはない。山間から延々とカレーズによって冷たい雪解け水が引かれ「泉」となり、人々の喉を潤してきた。
西域土漠地帯にあるウルムチは他のオアシス都市に比べると降水量には恵まれた地ではあるが、麦を作るにも果実を育てるのにも基本的に雨には頼らない。古来よりカレーズによって引かれる雪解け水で暮らしを維持してきたのだ。

西域・土魯蕃の暮らしぶりについては、中国、清代乾隆年間の学者であり詩人の紀昀(きいん)の詩に良く描かれている。
紀昀は、罪を問われ(左遷され)新疆ウルムチに1770年から1771年の2年間流されていた。その間に著したという「烏魯木斉雑詩」がとても面白い。
西域ならではの珍しい風景や風俗などが情景豊かに詠われていて、200年の時の流れを越え1980年代の旅の中でも納得させられるものがあった。

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山の自然素材を使って作るアート(イケマ) … Nature Art・Workshop2021/08/16

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:イケマ・生馬・牛皮消
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

イケマ:学名:Cynanchum caudatum 、キョウチクトウ科ガガイモ属のツル性多年草。
山の林縁部や、日当たりのよい斜面などで普通に見られる。

キョウチクトウ科ガガイモ属の特性で、全草毒草である。特に、植物を傷つけたときに出る白い汁(乳液)に毒性を持つ。
また、その太く長い地下茎にはアルカロイド系の毒性があり、昔から生薬としても用いられてきた。漢方名で「午皮消根」といい、効能は利尿、強壮、強心薬、食中毒の解毒や腹痛、歯痛、風邪薬、回虫の駆除などに使われていた。

またイケマは、アサギマダラ(蝶)の食草としても知られている。同じキョウチクトウ科ガガイモ属のキジョラン(鬼女蘭)もアサギマダラの食草。
アサギマダラはイケマやキジョラン、ガガイモなどの葉の裏側に産卵し、その幼虫はその葉を食べて育つ。アサギマダラは、鳥などの外敵から身を守るため、幼虫のうちにガガイモ属の持つ毒素を体内に取り込み「蓄積」しているという。この天敵からの防御システムもアサギマダラのDNAに組み込まれたプログラムなのだと考えると自然の不思議さには感嘆させられるばかりだ。

花期は7月から8月で、小さな花が多数集まって花序全体が球のように丸くなって咲く。花が終わると、ガガイモ属特有のオクラのような紡錘形の袋果(果実)を2つずつつける。袋果の中には白く長い種髪(毛束)をつけた長さ8mmほどの種子が入っている。袋果が割れると毛束の付いた種子が飛び出し風に乗り飛散する。


イケマは「生き馬」を意味し、ウマの便秘を治す薬に使われたとか、「カムイ(神)の足」というアイヌ語が由来で名付けられたとかイケマと言う名の由来には諸説あるようだ。(アイヌ語名も日本語名も「イケマ」というそうだ)
アイヌ民族にとってもイケマは古くから重要な植物で呪術用、薬用、食用とされていたようで、伝染病などから身を守るお守り代わりに乾燥したイケマを身に付けていたともいう。


アサギマダラ(タテハチョウ科):日本全土から朝鮮半島、中国、台湾、ヒマラヤ山脈まで広く分布し、その目立つ色彩の翅は一目でそれと分かる。アサギマダラの成虫は、秋に日本本土から南西諸島・台湾などへと渡り、初夏から夏にその逆のコースで北上するとされ、「旅する蝶」として知られている。
上にも書いたように、アサギマダラはガガイモ属植物の持つアルカロイド系毒素を体内に取りこみ貯えることで身体を毒化し、敵から身を守っている。アサギマダラは幼虫・蛹・成虫とどれも鮮やかな体色をしているが、これは毒を持っていることを敵に知らせる警戒色と考えられている。(Wikipedia抜粋)

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 8 … 海外・WanderVogel2021/08/17

いくつかの宗教施設群で構成されたNaar Phedi村
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写真:いくつかの宗教施設群で構成されたNaar Phedi村を対岸に見る。2018年12月

比較的開けた丘の上にある標高3,800mのKhyakku村だが、朝のうちは岩山の陰になってしまいなかなか村まで陽射しが落ちて来ない。
(いまさらながらだが、このへんでは1軒でも家があれば「村」と呼ぶ。)

標高が下がってくると、周囲に野生のシカの姿が見られるようになる。姿は見られなかったが、足跡でキツネやウサギが歩き回っているのがわかる。ヤクはここではすでにお馴染みの動物になってしまった。標高が下がってきたので、赤茶色一色の景色の中に灌木の枯れた緑色が混じるようになってきた。

Naar村への分岐の吊り橋があるNaar Phediまで歩いてきた。(写真)チベット仏教施設だけでまとまっているNaar Phedi村は、ゴンパや修道院、巨大なチョルテンなどを抱えた宗教コンプレックスを構成している。
ふたつの支流に挟まれた(写真)正面の山の向こう側にNaar村(標高4,200m)はある。

今回は時間的な制約でNaar村には行けなかったが、道は標高5,320mのKang La (峠) を越えてMarcyangdi Khola側にあるNgawalに通じている。Ngawalからは歩き1日の行程で、Manangに達する。時間と体力があれば、この魅力的なルートも歩いてみたかった。

標高3,560mにあるMeta村まで下り、人の居た1軒の民家を見つけ、そこで早めの昼食を作ってもらうことにした。手間の掛かるものをお願いすると時間がかかるので、3人とも同じ(袋入りのネパールラーメン)ララヌードルスープを作ってもらい、ブラックティーで簡単に済ます。

ここからの道は、崖から流れ出た水で地面がガチガチに凍り付いていて、岩天井からツララのぶら下がった滑りやすい滝裏をガイドに手を引かれながら恐る恐る通過する。
凍りついて危ない岩壁をへつる道を通り抜けると樹林帯に入る。やっと標高が下がってきたことを実感する光景なのだが、風はまだ冷たくなかなかハードシェルのジャケットが脱げない。
相変わらず、下は冬用の山用タイツに冬用トレッキングパンツ、上は冬用の山用シャツにパタゴニアのR1ミドルウエア+ダウンジャケットの上からハードシェルという完全防寒の出で立ちだ。ウールの手袋だけでは指先が凍える。頭にはバラクラバ+ウールの帽子とこれまた本格的な冬山装備だよ。
標高を下げているというのに、4,000m時点よりも寒く感じるのには閉口する。

日暮れ前に標高3,000mのChhongcheのバッティに到着。行きの時に泊まった同じバッティだ。というよりも、人がいるところがここしか無いのでこちらに選択肢などはまったくない。
部屋のベッドにシュラフを用意して少し休憩しようと思うのだが、いびつな石を積んだ石壁にトタン屋根を載せただけの粗末なビバーク小屋以下の家屋なのでとうぜん室温と外気温は一緒だ。いびつな石の壁の間からはたえず冷風が吹込み、風通しは抜群だ!
コップにお湯を入れて傾いたテーブルの上に置いておくと、いつの間にか凍っていた。

あまりの寒さにかまどのある主屋に行くのだが、娘三人いる一家とガイドとポーターと僕が入ると部屋は超いっぱいになり、なんとも言えない状況になってしまう。とはいえ、そこで夕食を食べるしかないのだ。当然、作れる料理にあまり選択肢は無い。
このバッティには電気は来ていないので、かまどの火だけが照明であり暖房だ。標高は下がってきたとはいえ、まだ3,000m近いので陽が落ちると寒くてかまどの前から動けない。
かまどの前で油多めのベタベタしたチョウメンとベジタブルスープをヘッドランプの明かりの中で食べる。最後はお茶で流し込んだ感じだが完食した。大量のニンニクが高山病予防に効果があるということだが、口の中が強烈にニンニク臭くてたまらない。

ガイドのラムさんに毎回湯たんぽを作ってもらい、寝床のシュラフの中は今夜も極楽だ!
エアマットも威力を発揮しているし、この中だけは天国だ。

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山の自然素材を使って作るアート(ヤマノイモ) … Nature Art・Workshop2021/08/20

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:ヤマノイモ
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

ヤマノイモ属のつる性植物は丹沢ではヤマノイモのほか、オニドコロ、ニガカシュウ、カエデドコロなどいくつか混生して見ることが出来るが、みな良く似た形状をしているので見分けるには少しコツが必要だ。

ヤマノイモ(山の芋)Dioscorea japonica:ヤマノイモ科ヤマノイモ属のつる性多年草。雌雄異株。
日本原産で、粘性が非常に高い。ジネンジョウ(自然生)、ジネンジョ(自然薯)、ヤマイモ(山芋)とも呼ばれる。
雄花は直立し白い花を咲かせ、雌花は下に垂下がって咲く。
葉はヤマノイモ属の中で唯一対生なので、見分けは付き易い。また、葉腋にムカゴ(零余子)が付くのも特徴のひとつだ。

果実は蒴果(さくか)で大きな3つの陵があり、下向きにつく。
それぞれの陵の中に2つの種子が入っている。果実が熟すと針金状の留め金がはじけて裂開し種子が放出される。種子の周りに出来た薄くて大きな膜を使って風に乗り遠くに飛ばされる。ただし、ムカゴによる繁殖のケースの方が多いのだともいわれている。


オニドコロ(鬼野老)Dioscorea tokoro:ヤマノイモ科ヤマノイモ属のつる性多年草。雌雄異株。
雄花は直立し淡黄緑色を咲かせ、雌花は下に垂下がって咲く。ムカゴは付かない。
オニドコロは葉はヤマノイモに比べ丸く、葉が互生で付くので見分けられる。オニドコロのイモには有毒成分があって食べられない。ヤマノイモと間違えて食べて苦しむ人もいるが、アク抜きをすれば食用出来るともいわれている。オニドコロの毒の成分はサポニンの一種とシュウ酸カルシウムで多くは水溶性。シュウ酸カルシウムは加熱処理である程度無効化することができる。とは言え、一種の救荒植物的な扱いでの話であろう。

果実は蒴果でヤマノイモとは逆に上向きに出来る。
種子の周りにはヤマノイモ同様に薄い翼があるが、ヤマノイモと比べずいぶんと小振りだ。なので、飛翔能力も高くはない。上向きの付く果実はヤマノイモと違って稜/殻は全開せず、先端から3分の1だけ開く。殻から吹き飛ばされるほどの強風が吹くときだけ種子は散布される仕組みなのだ。理にかなった実に良く出来た種子散布システムだ。


ニガカシュウ(苦何首烏)Dioscorea bulbifera:ヤマノイモ科ヤマノイモ属のつる性多年草。雌雄異株。
雄花(紫色)雌花はともに下に垂下がって咲く。
葉の形は普通のハート型で互生して付く。オニドコロの葉と似ているが、大きさはヤマノイモ科では一番大きく、15cm位もあるのも見かける。
葉脈に規則正しく横に走る側脈があるのもニガカシュウの特徴。ニガカシュウの葉柄の基部と上端には独特の縮れた襞(ひだ、ひれ)がある。
葉腋にムカゴ(零余子)が付くが、ヤマノイモのムカゴに比べるとゴツゴツした突起があってイビツな形をしている。
根もムカゴも苦みが強くて食用には向かないかな。


ヤマノイモの作品制作にあたっては、枯れた果実のサンプル採取は非常に容易でいくらでも手に入る素材のひとつだ。
蔓と枯れた果実のバランスを見ながらレイアウトし、薄い翼の付いた種子をアレンジすると作品は出来上がる。フォルム自体がキレイで面白い形をしているので、そこを活かして楽しみながら作ると良い。
上記のように似たツル植物の種子散布方式の違いを頭の隅に思い浮かべながら作っていくとより理解が深まるだろう。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出6/1 … 海外・WanderVogel2021/08/22

1979年12月 Kabul市内のモスクにて
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写真:1979年12月、ソビエト軍侵攻直前のカブール市内のモスク内でのスナップ。

1979年(昭和54年)冬、僕は革命で混乱していたイランから逃れ、陸路で国境を越えアフガニスタン側の検問所イスラムカラ(Islam Qala)からアフガニスタン国内へと入った。

この時期アフガニスタンの入国VISAを取得するのにけっこう難儀したのを覚えている。
ギリシア・アテネのアフガニスタン大使館とトルコ・イスタンブールのアフガニスタン領事館で入国VISA申請にトライするがダメで、イラン・テヘランのアフガニスタン大使館でやっと取得することが出来た。
イラン革命まっただ中のイラン国内では、ちょうどその時(1979年11月)テヘランにあるアメリカ大使館の占拠事件が起きた。アメリカ大使館員とCIA関係者らが人質になるというアメリカにとって前代未聞の汚点・大事件が発生し、イラン国内では反アメリカの機運が最高潮に達した。
そういう時期にもかかわらず、アフガニスタン入国VISA申請料の支払いはUS$キャッシュオンリーで、他の通貨での支払いは頑として受け付けてもらえなかったのを印象深く覚えている。申請料は正確に覚えていないが、他国のVISAに比べるとけっこう高額だった気がする。

その頃、中近東や南アジアを旅するバックパッカーは、ドルキャッシュ(当時1$=¥230〜¥235)はある程度は持っているのが大常識ではあったが、大半はAmexやBank of AmericaあるいはThomas Cookなどのドル建てのトラベラーズチェックで旅のお金を持っていた。ドルキャッシュはいざという時の為に出来るだけ使いたくなかった、というのが正直なところだった。(闇両替でさえTCを使ってしたくらいだった。)
クレジットカードやキャッシュカードなどは姿すら無かった時代の話だ。


アフガニスタン国内では、現地の人達に混じってオンボロなローカルバスに乗っての旅であったのだが、反政府ゲリラ・ムジャヒディンからの攻撃を避けるためトラックなどと一緒になり長いコンボイを組んで、前後に政府軍の装甲車を配しての移動であった。
木製フレームのバスは半分くらいの窓にガラスが無く、ベニヤ板で応急修理されていた。
バスの横っ腹にはキレイに並んだ機銃掃射の穴の跡が数列空いていて、やけに埃っぽい砂まみれ・土まみれの車内であったことを思い出す。
要衝と思われる場所では、道の両側にソ連製の旧式のT−34中戦車が並んでいた。


アフガニスタンの首都カブールの支配者は古くは、サマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移していくが、カブール自体は「村」の域を出ず都市化されてはいなかった。その後のチンギス・ハーンからティムールへと続くモンゴルの時代でも大きな変化はなかったが、16世紀前半にムガール帝国創始者のバーブルがカブールを一時期「都」としてからは、この町の戦略的重要性は高まっていく。

近代に入り(ロシアの南下政策に対抗するため)一時イギリス軍の占領下に置かれるが、1919年アフガニスタン王国として独立。1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治したが、アフガニスタンはもともと部族社会で成り立っていて、地方の権力はそこの部族の長が依然握っていた。
そのような中、ザーヒル・シャーの従兄弟のダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のため国外に出た隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させてしまった。しかし、1978年に今度はダーウード自身が暗殺されてしまう。代わって共産主義政党のアフガニスタン人民民主党が政権を掌握するのだが、政党内の派閥対立により、1979年夏にはアフガン全土で反政府ゲリラ(ムジャヒディン)が蜂起、反乱や衝突が多発、ほぼ全土が抵抗組織の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請するに至った。

僕がアフガニスタン国内に入ったのがちょうどこの時期だった。

1979年12月初め、ソビエト連邦(USSR、ソビエトユニオン、ブレジネフ時代)によるアフガニスタン軍事介入・侵攻が始まり、またたく間に北部地方は掌握されていった。12月23日には首都カブールにソ連軍(KGB)が侵攻しそのまま占領、カブールに突入したKGB特殊部隊はこともあろうに軍事介入を要請した張本人である人民民主党政権の現大統領を襲撃し暗殺、新たな大統領とすげ替え親ソ連の共産主義政権を樹立させてしまう。
アフガニスタンは地理的にソ連にとって要衝の地であり、首都カブールを押えることは南アジアの安全保障上でも大きな意味があった。ソ連軍は1988年にアフガンから撤退するまでの10年間そのままカブールに駐留することとなる。

ソ連がアフガニスタン軍事介入に固執したわけはもうひとつある。同時期に隣接するイランがイラン革命によってパフラヴィー王制(イラン最後の皇帝)が倒され、シーア派のイスラム指導者ホメイニ氏を中心としたイスラム原理主義の新政府が樹立されたことに危機感を持った。もし同じようにアフガニスタン国内でもイスラム原理主義の革命が起これば、宗教や民族問題で国内に火種を抱えていたソビエト連邦国内にも飛び火する危険性が大きかったからだ。その後に勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのがソ連であったこともそれを物語っている。


そんな時期に僕はひとりアフガンを旅していたのだが、幸運だったのはソ連軍によるカブール陥落直前に首都を離れ、ジャララバードを経てカイバル峠を無事に越えられたことだろう。
そして、最大の不幸は、もう1年早く休学して出発していたならば、アフガニスタンの北部地域に位置するバンディ・アミールやマザリシャリフ、バーミアンといった夢にまで見ていた湖を都を遺跡を歩き回れたのになぁ、、と後悔してもしきれない気持ちを今でも持っている。


- - 6/2へ つづく - -

シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出6/2 … 海外・WanderVogel2021/08/23

ペシャワールの穀物バザール1979年12月
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写真:1979年12月、カイバル峠を越え、パキスタン・ペシャワールに無事に到着し、市内の穀物バザールでのスナップ。チャールポイに座り現地の人たちに囲まれながらチャイをごちそうになっているところ。カブールで買った皮の長靴を履いている。

ペシャワールはペルシャ語で「高地の砦」の意味。カイバル峠(標高1,070m)からはわずか50kmの地点にある紀元前から栄えてきたシルクロードの要衝であり、ガンダーラ地方の中心地である。カニシカ王で有名なクシャナ朝の時代プルシャプラと呼ばれた古都。

- - 6/1の つづき - -
ソ連軍による軍事介入から現在に至るまでのアフガニスタン国内の混乱の歴史は、様々なメディア・ニュースなどで報道されているように、さらに混迷の度合いを色濃くしていくことになる。


1979年以降、ムジャヒディン(ジハード/聖戦を遂行する者)諸派はパキスタン軍統合情報局などからの支援を受けて、共産主義政権とソ連軍に対し激しく抵抗した。アフガニスタンのムジャヒディンには、イスラム世界の各地から志願兵として多くの若者が集まってきたが、その中にはあの有名なオサマ・ビン・ラディンもいた。
実は、アメリカ合衆国もCIAを通じてムジャヒディンに武器や装備、活動資金をパキスタン経由で極秘に提供していた。また、ムジャヒディンはパキスタンと仲の良い中国からも武器や訓練で援助を受けていた。これは中国とインドが対立していた関係で、インドと領土問題で火種を抱えるパキスタンが中国と友好関係を維持していたことによる。まさしく「敵の敵は味方」の論理である。

1988年にソ連軍が撤退を開始すると、ムジャヒディン各派はアフガニスタンでの主導権争いで対立、軍閥化していった。
ムジャヒディンを支援していたパキスタン軍統合情報局が支援先をタリバンに変更すると、対立していたムジャヒディンの諸派は今度は連合し北部同盟としてこれに対抗した。
というように、個々の利益にのみ関心を示し烏合集散を繰り返すどこぞの国の野党諸派と同じように、もう何が何だかかわからないグチャグチャぶりで、さらにわけの解らない状況が続くことになる。

ソ連軍完全撤退後の1992年にアフガニスタンの共産主義政権が崩壊すると、カブールは一時ムジャヒディンの手に落ち、その後タリバンがそれに取って代わった。タリバン政権(アフガニスタン・イスラム首長国)期も引き続き首都は一応カブールとされたが、政治の中心はパシュトゥーン人主体のタリバンにとっての本拠地である南部のカンダハルだった。

タリバンは厳格なイスラム法の遵守を強要するだけでなく、文化浄化(積極的な文化財破壊行為)も行っている。2001年3月、タリバンはバーミアンの大仏像の足元に爆弾を仕掛け爆発させ、大仏像はがれきの山と化した。バーミヤン渓谷の岩肌を掘り込んで造られた大仏像は、一帯がシルクロードの中継地としてにぎわっていた6世紀ころから建造が始まったとされる、アフガニスタンの人々だけでなく全人類に取っても貴重な文化的遺産だった。
タリバンはこの貴重な大仏像を含む数多くの文化遺産を破壊し尽くし、さらにその様子を全世界に映像配信するという暴挙までも行なっている。

ユネスコは仏像の周りの岩壁に残る壁画で装飾された洞窟群と、仏教寺院を含むバーミヤン渓谷全体を2003年に世界遺産に登録したが、遺跡は壊滅的な被害を受けていて、大仏像のみならず石窟の壁面に描かれた仏教画のおよそ8割が失われたと報告されている。


2001年に入ると今度はアメリカがアフガニスタンに侵攻することになる。発端は2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロだ。
首謀者とされたオサマ・ビン・ラディン率いる国際テロ組織アルカイダは、アフガニスタンに根拠地を持っていた。そしてそのアフガニスタンを広範囲に実効支配していたのがタリバンなのだ。アメリカ政府は、タリバンがアルカイダと連携し、保護していたとみなした。米軍による激しい空爆によって、同年冬にはタリバンは首都カブールを放棄し、これに代わって反タリバン勢力の北部同盟がふたたびカブールを支配下に治め、アメリカを主体とする国際社会の支援を背景に、同年12月にカルザイ大統領率いるアフガニスタン・イスラム共和国が発足した。

とは言え、各派その思惑が全く異なる者同士が単に反タリバンという旗印に集まっただけの組織である「北部同盟」に、国を導く力や理念などあるわけも無く、ただただ混乱しグダグダになることは解っていたことだった。
北部同盟主体の新政府が出来た後も混乱した国内情勢は一向に好転せず、政府内での不正と腐敗、ムジャヒディン諸派同士の足の引っ張り合いに終始し、アフガニスタン全土を実質的な支配下に置いていたのは相変わらずタリバンという有様だった。
そんな中、2019年に長年に渡って草の根的にアフガンの人々を支援し現地でも尊敬を集めていた中村哲医師が殺害されるという痛ましい事件まで起こってしまった。

2001年から今に至るまでの20年間、米国や国際社会が現政権を必死に支援し続けても、アフガンの民主化や治安状況の改善は一向に進まない。アフガン政府内に広がる腐敗や無能力ぶりはカルザイ大統領からガニ大統領に代わっても改善すること無く、見通しが立つことすら無い状況にアメリカ政府も完全に嫌気がさし、ついにアメリカ軍の完全撤退が実施されることとなった。

アメリカ軍の完全撤退は今年(2021年)9月11日までにとされているが、撤退の準備が始まるとタリバン勢力は政府正規軍と戦火らしい戦火を交えることも無く、あっという間に首都カブールを掌握、あっけなく陥落させてしまった。

今後、正式(?)にタリバン政権が樹立されることとなるのだろうが,報復という名の虐殺、民族差別による浄化作戦、無意味な破壊行為が各地で大規模に繰り広げられるのは必至であろう。

ふたたび悲劇は繰り返される。

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山の自然素材を使って作るアート(センペルセコイア) … Nature Art・Workshop2021/08/25

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:センペルセコイア
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

センペルセコイア:ヒノキ科(スギ科)セコイア属の常緑樹
もちろん日本には自生していないが、大きな都市公園や庭園などに植えられることがある。
近似種のメタセコイアは20世紀半ばに中国西南部で見つかりその後アメリカで育苗された苗木が輸入され、日本全国に広がりあちこちで見かけられる様になっているが、センペルセコイアの方はまだそれほど見る機会は少ないと思う。葉の形状など良く似ているが、センペルセコイアは冬季でも葉が落ちない常緑樹で、メタセコイアの方は黄葉後にすべて落葉してしまうので、見分けられる。

葉の付いた小枝ごと下に落とすので、時期になると写真のような姿のものをたくさん採取出来る。
枯れて、中の種子を落とし終わったものが多く、種子サンプルを見つけるのには少し苦労する。
作品化しても、葉がポロポロと落ちていくので、現状の姿を維持させるには瞬間接着剤で留めるなりの工夫は必要。
枯れた果実の形状にもいろいろ個性があり、レイアウト次第では楽しめる。
バックには少し柄のあるネパール和紙(ロクタペーパー)を使っている。


センペルセコイア:Sequoia sempervirens、セコイア・センパーヴィレンツ、別名:セコイアメスギ・アカスギ
世界の絶滅危惧植物 絶滅危惧Ⅱ類(VU)、北アメリカ太平洋側沿岸部、標高700-1000mの海岸に近い山地に自生する。
寿命がとても長く、樹齢800年から2000年のものがあるといわれている。また、世界でもっとも樹高の高い木のひとつといわれ、高いものでは100mを超えるという。
雌雄同株異花で、葉の先端に雌花が付く。雄花は葉腋から出て、葉の内側に付く。
樹皮や材の中心部が赤いことからコースト レッドウッドとも呼ばれる。

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山の自然素材を使って作るアート(ウツギ) … Nature Art・Workshop2021/08/27

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:ウツギ
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

ウツギ(空木)学名:Deutzia crenata:アジサイ科(旧ユキノシタ科/エングラー体系)ウツギ属の落葉低木。雌雄同株。葉は対生。
ウノハナという別名を持ち、丹沢の沢沿いや林道沿いの林縁部で、6月ころにいっせいに白い花を咲かせる。
この時期、ウツギだけでなく、ヒメウツギ(アジサイ科)やガクウツギ(アジサイ科)、マルバウツギ(アジサイ科)、コゴメウツギ(バラ科)、ツクバネウツギ(スイカズラ科)などが順に咲き始める。

ウツギは花期を終えるとすぐに結実させる。直径5~6mmの果実はお椀状というか壷状の朔果で、果実の中心からは花柱(雌しべの芯)がピョコンと飛び出している。花柱は熟すと枯れて3~4裂する。
果実は熟すと基部が裂けてそこから小さな種子がこぼれ出てくる。
種子は小さく肉眼では粉のように見えるがルーペで良く観察してみると、長さ1.5~2mmの種子の片方に翼があるのが解る。風に乗って運ばれる風散布形式の種子なのだ。

結実後はこのままの姿を保ち、翌年の夏くらいまで残っているのでサンプル採取は容易だ。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出7 … 海外・WanderVogel2021/08/28

クーンブ地方のトレッキング
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写真:2017年冬、クーンブ地方エベレスト街道のトレッキング途上にて、新旧2本の吊り橋の掛かるドードー・コシ渓谷をバックに。渓谷の向こうにピョコンと頭を見せているのはナムチェバザールの奥にそびえるクンビラ山。

僕はシルクロードを放浪する、をメルクマールとして旅を続けているが、時にはそうではないところを歩く時もある。

東部ネパールの北部国境に接するクーンブ地方は、二つの大きな谷からなる。
ナムチェ・バザール(標高3,440m)を基点に、一つは北東方向ヘ延び、世界最高峰に達するドードー・コシ水系、もう一つは北西方向ヘ延びるボーテ・コシ水系である。

ボーテ・コシ川沿いの道はナンパ・ラ(5,850m)峠でヒマラヤ山脈を越えチベットへと続く古くからの交易路である。
シェルパ族の本拠地ナムチェバザールは、チベットに通じる古くからの通商路上に位置し、今でも何隊ものヤク(チベット牛)の隊商が行き交い、物資が運ばれているという。またこの道は、1959年のラサへの中国人民解放軍軍事侵攻の際に多くのチベット人がネパールに逃れて来た道のひとつでもある。

ただし、チベットとの交易が盛んな時期であっても、交易の実際はチベットから安い羊毛を取り寄せ、ナムチェで絨毯に織って加工し、南に運び売っていたり、チベットから運ばれる岩塩が主な交易品であった程度で、逆に輸出していたものはゾウ(ヤクとウシの混血種)と穀物ぐらいだったようだ。交易と言ってもその規模は決して大きくはない。
現在ナムチェバザールで開かれている週に一度のバザールにしても、開かれ始めたのはせいぜい50年ほど前のことであり、それ以前には今のような開かれた定期市はなかったという。そのころは今のような観光・交易もなく、住民も少なくみんな一応に貧乏だったようだから、他のヒマラヤ越えの主要交易路と比べると交易規模はかなり小さかったと想像出来る。


一方、いわゆる「エベレスト街道」と呼ばれる有名なトレッキングルートは、交易路のあるボーテ・コシ川沿いではなく、ドードー・コシ川沿いに遡行して行く。その先、エベレストを中心として中国国境との間にまさしく「壁」の様に立ちはだかる大山脈には、その向こう側に広がるチベット高原へと抜けていく隊商路・交易路は存在しない。それほどまでにこの「壁」は絶望的に高く厳しい。

アンナプルナ方面/ムスタン・ドルポやランタン方面などと違い、クーンブのエベレスト街道に点在する村々はチベット仏教寺院を持ついくつかの村を除き、エベレスト方面への観光トレッキングのための村・キャンプといっても間違いではないだろう。少なくとも現在の村の姿からは往時の雰囲気を想像することは出来ない。
圧倒的な迫力でせまるエベレスト山塊の姿には神々しさを感じるのだが、ここでの村の営みからは交易路上の村の持つ魅力を感じることは残念ながら無い。


エベレスト街道のトレッキングは小さな飛行場のあるルクラから始まる。
カトマンズから同行したガイドは、まずはポーターを手配することが最初の仕事になる。
ルクラからナムテェまでは2日程度かかるが、周りにはヒマラヤの濃い樹林帯が広がっていて、その中に気持ちの良い山道が続いている。この雰囲気を味わうのもヒマラヤトレッキングの魅力のひとつだ。(雨期にはヤマビルが多くて難儀するらしいので、歩くのはやはり乾期/冬期が良いだろう。)

ルート上に点在する集落の近くに広がる森林は、モミ、マツを主とする針葉樹林であり、建築用材や燃料としても使われる。ほかに、シャクナゲ、カンパ(ダケカンバやシラカンバといったカバノキ科の高木)などもよく目に付く。
ほかにも日々の生活の中で毎朝の祈りの時に焚かれ、香りの良い煙を出す葉として知られるビャクシン(ヒノキ科のネズ、ジュニパー松)なども見られる。

ナムチェバザールから先はそれまでの樹林帯とは対照的に、これぞ「ヒマラヤ」という壮大で神々しい光景が眼前に広がり、岩稜の岩肌が美しい雄大な自然景観と地球規模の造山活動の有り様を堪能することが出来る。

ここでは誰でもその名を耳にしたことのある有名な山々のダイナミックな姿をパノラマで楽しむのに徹して歩こう。

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