シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出12 … 海外・WanderVogel2021/09/10

マハーバリプラムのパンチャ・ラタ1985年夏
- -
写真:マハーバリプラムの「パンチャ・ラタ」寺院遺跡群。1985年夏。

ドラヴィダ系タミール人の王朝パッラヴァ朝の首都がおかれていた内陸のカーンチプラム(古名カーンチー)から東に65Kmの距離にあるベンガル湾に面したマハーバリプラム(古名マーマッラプラム)は、かつての東西貿易の拠点・国際港湾都市だった。


インド亜大陸南端の東側海岸沿いで栄えたパッラヴァ朝はAD3世紀後半から9世紀末までと古代インドでは比較的長い期間栄えた王朝と言える。同時代、北インドではグプタ朝とハルシャ・ヴァルダナ朝が栄え滅亡し、デカン高原では同様にドラヴィダ系のヴァーカタカ朝、チャールキア朝という2つの王朝が栄え滅亡している。

南インドとシルクロード、あまり関係ないように思われるが、ここマハーバリプラムは「海のシルクロード」の重要な港であり、交易の中心都市だった。
AD1世紀頃からインド洋に吹く季節風(ヒッパロスの風)を利用した海の東西交易が盛んに行なわれるようになって、ローマ帝国や中近東からはローマ金貨やガラス器、金属細工品などが、中国・東アジア諸国からは香辛料などが大量に運ばれ行き来した。8世紀以降は陸のシルクロードに代わり、海のシルクロードが主流となっていく。
やはり、ラクダの背に載せて運ぶキャラバンよりも数倍、数十倍の規模で運べる大型船の方が理にかなっていたというわけだ。特に重量の重い壊れやすい中国陶磁器などは絶対的に海上ルートの方が効率は良い。「海のシルクロード」は「陶磁の道」とも呼ばれた。


パッラヴァ朝の時代、貿易港であったマハーバリプラムの海岸と周辺の岩山には数多くの寺院や彫刻が造営された。花崗岩の岩山を掘削した石窟寺院、岩壁彫刻、石彫寺院、石積みの石造寺院など多彩な建築群、彫刻群が今も数多く残されていてかつての栄華を目の当たりにすることが出来る。唐僧の玄奘が南インドを旅した際、ここを訪れたのではないかとも言われている。

なかでも「パンチャ・ラタ」(5つのラタ)と呼ばれる建築群は、当時の木造寺院を模しているのではとも推測されていて、狭いエリアに見どころがギュッと凝縮したとても見応えのある遺跡になっている。施設全体をひとつの岩の塊から彫出したという奇異な岩石寺院で、寺院に見立てた彫刻(現地では「ラタ」と呼ばれる)が5つあるから「5つのラタ」「パンチャ・ラタ」という名が付けられている。

柱脚や壁面に表情豊かなライオンや象、ユーモラスな小動物、神像などが刻まれたパンチャ・ラタ石彫寺院はマハーバリプラムに点在する遺跡群の中でも特に貴重な存在と言える。7世紀頃に建造されたとされるが、何故制作途中で放棄されてしまったのかはよくわかっていない。
長い期間、厚い砂の中に埋もれていて、19世紀になって発掘されたという曰く付きの遺跡である。


写真手前の寺院は「ダルマラージャ・ラタ」と呼ばれる建物で、パッラヴァ朝のシンボルであるライオンが柱脚部に掘り込まれているのが特徴的だ。階段状の屋根を持つ典型的な南方型のヴィマーナ(本堂)形式のフォルムを持つ。内部(聖堂)の造作は未完成のままいきなり工事がストップしたような感じに見える。
奥に見える尖頭アーチ型をしたヴォールト屋根を持つ寺院が「ビーマ・ラタ」と呼ばれる寺院で後に南インドで発展するゴープラム(巨大な楼門)の原型になっているとも言われている。ここにもライオンが柱脚部に掘り込まれている。ここも外装の一部と内部が未完成のままなのだが、なぜ途中で制作が止まって放棄されてしまったのか不思議だ。

写真右側に宝珠のような形状のものが落ちて転がっているのが見える。仏教建築で仏塔などの屋根の先端に載せられる「宝珠:ほうしゅ」に似ているが、ヒンドゥー教寺院でも同じようなデザインをした飾りが寺院頭頂部を飾っていた。おそらく対面に写っているダルマラージャ・ラタの屋根から落ちてしまったのであろう。

一帯は1984年に世界遺産(文化遺産)に登録された。
- -
アクセスカウンター