シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出5 … 海外・WanderVogel2021/08/15

ウルムチのナン屋 1984年冬
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写真:1984年秋 新疆ウイグル自治区ウルムチのナン屋の店先

旅での楽しみのひとつに現地での「食事」がある。
でも、場所によってはこの「楽しい食事」が苦痛に変わることもある。

特に土漠地帯(イスラム圏)は気候も厳しかったし、食事環境も過酷だった。
写真は、新疆ウイグル自治区にある「烏魯木斉・ウルムチ」という地方都市の街角のナン屋(パン屋)の様子。
ウルムチは、北にジュンガル盆地、南に天山山脈に挟まれた乾燥した地にある。シルクロード・東西交流で栄えてきた天山北路の要衝で、歴史のある古都だ。
店の中のカマドで焼き上げた数種類のナンを店先に積み上げて売っている。形は違えどだいたいみな同じ味だ。酵母を使っていないので総じて硬い。

ナンの脇には半身に切られたヤギの肉がぶら下がっている。先ほど屠殺され皮を剥かれ柱にぶら下げられたもので、当然これも売り物である。
1970年代、1980年代は中国西域地域では一般には「冷蔵庫」といったものが普及していなくて、肉類(魚も含む)は基本的に屠殺してすぐに販売・調理するものと決まっていた。なので、肉屋の店先と売られていく動物の待機所とは直結していた。

パキスタンやイランの土漠地帯ではそれでもまだ、ヤギ肉やヒツジ肉の他に副産物としてヨーグルトやチーズが作られていて、調理素材のバリエーションがいくらか広がるのだが、新疆ウイグル自治区では基本的に食事と言えば、シシカバブとナン、チョウメン(ヤギ肉入りの焼きそば、のようなもの)、刀削麺(ヤギ肉風味のスープに入った短い麺、のようなもの)、モモ(ヤギ肉入りの包子)などで、それをローテーションで毎日食べることになる。

1週間、2週間であれば「若さ」で乗り切ることも出来るが、1ヶ月、2ヶ月と続くとなかなか辛いものである。
特にヤギ肉はイカンな。一度その独特の匂いが気になり始めると、その匂いだけで身体が受け付けなくなる。

1980年代は妻と2人で旅をしたこともあって、いくら元気な若い女性であったとしても、さぞかし辛い旅であったことだろうなぁと、60歳を過ぎ今さらながら懺悔するのである。
(そこへいくとインドなどは天国である。当時でも、インドには「カレー」しかない(つまり、マサラの匂いのしないものは無い)と言われていたが、それでもバリエーションがあるので救いがある。)


西域土漠地帯の食べ物で唯一の救いは果物だ。
総じてどこでも果物(あるいはドライフルーツ)は豊富で、数種類のブドウ、フットボール大のメロン、ザクロ、アンズなど美味しい果物がたくさん売られていて、市場でも露天でも簡単に手に入った。ただし、すべて常温で売られているので温かい。
なので、いったん宿に戻って冷たい泉の水で冷やして食べるとこれがまさに「絶品」なのである。
ついでに言うと、200年以上前に紀昀(きいん)も記しているように、ブドウなら土魯蕃(トルファン)産、メロンなら哈密(ハミ)産が一級品だ。

烏魯木斉(ウルムチ)の町の南側には4,000~5,000mを越える天山山脈がそびえ、その高峰は夏でも雪が消えることはない。山間から延々とカレーズによって冷たい雪解け水が引かれ「泉」となり、人々の喉を潤してきた。
西域土漠地帯にあるウルムチは他のオアシス都市に比べると降水量には恵まれた地ではあるが、麦を作るにも果実を育てるのにも基本的に雨には頼らない。古来よりカレーズによって引かれる雪解け水で暮らしを維持してきたのだ。

西域・土魯蕃の暮らしぶりについては、中国、清代乾隆年間の学者であり詩人の紀昀(きいん)の詩に良く描かれている。
紀昀は、罪を問われ(左遷され)新疆ウルムチに1770年から1771年の2年間流されていた。その間に著したという「烏魯木斉雑詩」がとても面白い。
西域ならではの珍しい風景や風俗などが情景豊かに詠われていて、200年の時の流れを越え1980年代の旅の中でも納得させられるものがあった。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 7 … 海外・WanderVogel2021/08/13

Kyang村周辺の風景、2018年初冬
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写真:Kyang村周辺の風景、2018年12月

Phu村を出発すると、あとは基本的に下るだけだ。道々のバッティ事情もすでに解っている。そう思うと不安を抱えた昨日までと違い精神的にけっこう楽なものだ。
快晴の天気に気分も良く、鼻歌まじりで歩いて行ける。

お昼過ぎに陽当たりの良い丘の上に造られたKyang村に到着する。(写真)
しかし、昨日昼食を食べたバッティにはすでに住人はいなかった。その下に見えるもう一軒の民家に村人が出入りしているのがチラリと見えたので行ってみる。地元の村人とヤクの放牧に来ている人が、今まさに食事を取ろうとしているところだった。ラッキー!です。幸運ですよ!

我々もそこでなんとか昼食にありつけることが出来た。面倒な注文・お願いはもちろんやめた方が良かろうと、トマトスープとチャパティを頼む。それと手持ちのチーズで僕は簡単に昼食を終える。チャパティはベニヤ板のように硬く、味も素っ気もなかった。
ガイドのラムさんとポーターくんは地元の人たちと同じようにチベット風に味付けされたダルバートを食べる。
(後日、今回のトレッキング中の食事の話しになったのだが、彼らにしてもチベット風に味付けされたダルバートは超マズかった~。 と吐露していた。)

そこでミネラルウォーターを1本売ってもらう。1L=Rs350、Kathmanduなら1本 Rs20~30程度なのにねぇ。
他の観光地トレッキングコースの場合、車やヘリでの大量輸送が可能だが、このあたりでは、一昔前と同じように基本的に馬や人の背に背負われて運ぶしか選択肢が無く、かつ滅多に外国人トレッカーが訪れない地なので余計に高く付くのだろうな、と理解は出来る。
が、、いったい何時のミネラルウォーターなのだ?

とりあえず、質素な昼食を終え、Kyang村を出発する。
快晴で陽が射してはいるのだが、風が強くひどく冷たくなってきた、ダウンジャケットとハードシェル、バラクラバ、ウールの帽子と手袋は離せられない。
オーバーミトンを持ってこなかったことを後悔する。標高が下がってくるにしたがって、冷たい風が出てきて身体を急速に冷やしていく。

そうこうしているうちに上空には雲が湧いて来始め、山に掛かるようになってきた。雲の動きも速い。
そういえば、登っていた時も標高の低いところの方が天気が不安定で積雪もあったな。
周りがうす暗くなりかけた時、やっとChyakku村のバッティに到着した。今日の行動時間は6時間超、今日も良く歩いた。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 6 … 海外・WanderVogel2021/08/04

Phu村のバッティにて
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写真:Phu村で唯一開いていたバッティにて、2018年12月

Phu村で唯一開いていたバッティで朝を迎えた。
旅では毎晩ガイドのラムさんが湯たんぽを用意してくれる。極寒の室内でもベッドの中だけは極楽だ。う~ん、やはり湯たんぽはありがたい!

朝食の時に聞いてみると、このバッティの一家も含めて、村人はだいたいみな今日中に下のkyang村まで下るのだそうだ。
いやそうだとすると、昨夜いきなり来て泊まることが出来て、ホントにラッキーだった! というか、1日ズレていたらどうなっていたことか!ほんと今回も冷や汗ものだった。(実際その話を聴いたときは恐ろしさで身体が震えた。)

Phu村では冬は、年寄り連中は動物たちを連れてKyang村あたりまで下って「冬ごもり」をする。若い人はカトマンズまで出稼ぎに行くという。
12月以降の冬期間は、まとまった積雪があるとKyang村からPhu村までの山道(生活道)が閉ざされてしまうので、村人はみな下の村に下るとのこと。そうなると、我々のような外国人がこの間にトレッキングをすることなど到底 ”無理”ということだ。なんとか村までたどり着いても泊る場所もなく、食事すら手に入らないというのでは、命にも関わる問題だ。
ひと雪ドカッと降ればそれこそ言葉通り「進退窮まる」事態になりかねない

村人と共に下って行くロバや馬、ヤギ、ヤクの隊列を眺めながら、ガイドのラムさんと「いやぁ~、ギリギリセーフ!という感じだったな。到着が一日遅れていたら途方に暮れていただろうな」などとしみじみ話しをした。

朝食後、Phu村を散策。村自体はそれほど大きくないので1時間もあればぐるっと一周することが出来る。すり鉢状の地形に沿って家屋が展開しているPhu村の裏山頂上に建てられている古いゴンパまで登ってみる。上からの村の俯瞰もなんとも幻想的で不思議な光景だ。(僕が出発間際に見た写真がまさしくこれだった。)

標高4,080mのPhu村でも夏の間は(種類は解らなかったが)「麦」が収穫出来るのだそうだ。逆に、荒れた地でも良く育つと言われる「蕎麦」は、標高が高いゆえに育たないのだそうだ。
この乾燥した地だと青菜類も採れそうにないだろうし、耕作の条件としては最悪な土地の部類だろう。食料にせよ他の物資にせよ、ヤクや馬、人の背を利用して運び込むしか方法が無いのだが、交易の民「チベット族」ならそのあたりはNo Problemなのだろう。


朝9時を回るとPhu Kholaの河原にまで太陽の陽射しが射し込み、Phu村全体に陽が当たり出す。
昨夜泊ったバッティも各扉に外から大きな錠が掛けられ、旅立ちの準備をしている。
バッティの一家も他の村人と家畜と一緒に今日中にKyangに下るのだと言う。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出4 … 海外・WanderVogel2021/07/31

イラン・ペルセポリス 1985年秋
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写真:1985年秋、イラン・ペルセポリス遺跡、一人の訪問者もいない無人の遺跡群にて

イラン南部ファールス州シラーズ近郊の土漠地帯に、紀元前500年ころ世界の中心と呼ばれたアケメネス朝ペルシアの都ペルセポリス遺跡がある。
紀元前330年、アレクサンドロス大王によって徹底的に破壊、略奪され、さらに焼き討ちされたことにより完全に廃墟となり、2,300年以上の時が経過した。

ここを訪れたのは1985年秋、イラン・イラク戦争のまっただ中の時期だった。
そのせいだろうイラン国内を旅していても、外国人の姿を見かけることはまったく無かった。

シラーズの町で宿を取り、個人タクシーの運ちゃんと交渉し、ペルセポリスとナクシュ・イ・ルスタム(ナクシェ・ロスタム)の遺跡を往復してもらった。
ナクシュ・イ・ルスタムは、ダレイオス1世やクセルクセス1世などアケメネス朝時代の王の墓があるところで、岩山の壁に十字形をした4つの王墓が彫られていることで知られている。

タクシーの運ちゃんに行き先を説明するのに、どうしても「ペルセポリス」(直訳するとペルシャ人の都という意味で元々はギリシャ語だ)という単語・地名が通じず、「ナクシュ・イ・ルスタム」と言ってやっと通じた記憶がある。ナクシェ・ロスタムとは「ロスタムの絵」という意味で、王墓をさす言葉ではないのだが、そういう地名で呼ばれている。
ナクシュ・イ・ルスタムとペルセポリスとは直線距離にして5~6Kmしか離れていないので、そこを目指して行けばあとは走りながら指示すれば良かろうと考えた。現地のタクシーの運ちゃんにとって1980年代中頃ではそれほど観光名所でもない「ペルセポリス」に客を運ぶことなど無かったのだろう。
ともあれ、シラーズの町から車で向かえば、まずはペルセポリスが先に見えてくるはずだ。
(その時、僕はペルセポリスが現代ペルシャ語でタフテ・ジャムシード(ジャムシードの玉座」の意)という地名で呼ばれているのを知らなかった。)

1985年当時、遺跡内は閑散としていて、併設する博物館施設(出土した遺物などを納めているらしいのだが、一見するとバラックに見えた)は建設中だか整備中だかで入れなかった。
案内板も柵も何も無く、どこでも入れたし入場に際しても制限は何も無かった。ただ、ここには陽射しを遮るものがまったく無く、ひたすら暑かった。


壮大な規模で造られた「アパダーナ」は、残された何本かの巨大な柱を見るにつけその大きさに圧倒される。
広大な遺跡に散らばる断片すべてに精巧なレリーフが施されているのを見ると、破壊前がどれほど華麗で優美であったかが想像出来る。
写真に写っている双頭のグリフィンの柱頭は特に美しいものだった。

ペルセポリスは、1979年(イラン革命時)にはすでにユネスコ世界遺産に登録されている。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 5 … 海外・WanderVogel2021/07/29

Phu村入口の門をくぐり核心部に入って行く
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写真:Phu村入口の門をくぐり核心部に入って行く、2018年12月

神秘的なチョルテン群を後にし、目的地Puh村を目指してさらに歩き続ける。
今日の行程は少し長い。日が傾く前には村に到着していないと、急激に気温が下がって凍てつく寒さに震えることになる。

Phu川河原に降りたところで、灌木などの柴を拾って歩くPhuの村人に出会う。このルート上では今日までまったく歩く人の姿を見かけなかったので、ガイドを通してその老人からいろいろ話しを聞く。ガイド(ラムさん)はカトマンズ周辺の人なので、ボティア族の村人と正確に意思疎通が出来るとは限らないが、それでも何となく解るのだろう。「ヤクの落とす石に注意するように!」と言われたという。
そういえば、頭上はるか上の丘の急斜面に行列を作って進むヤクの一隊が見える。ヤクの行列が移動するたびに、はるか上から小石がけっこうな勢いでパラパラ落ちてきた。

このあたりはヤクの放牧地のまっただ中の様で、通過する人のことなどあまり気にするでも無く、あちらこちらで自由に草を食んでいる。
すれ違う時に目が合うとジッとこちらを観察しているような可愛らしい目を向けるのだが、ヤクはかなり体格が良いので近くで見るとけっこう怖いのだ。

そのまま河原をしばらく歩くと、Phu川をせき止めるかのように狭い渓谷に打ち込まれた巨大な「ピナクル」が見えてきた。
持っていた地図上でも「Phu Rock Pillar」の表記があったが、このことだったか。まるで「ここから先には入るべからず」と言っているようで自然の造形であることは解っていても、霊的なもの、神秘的なものを強く感じる。

ピナクルの右脇の隙間を巻くように通過すると、目の前にキツいつづら折りの急登がドーンといきなり現れる。
はるか上に「門」らしき建造物が小さく見えるが、これからあそこまでこの急な岩壁を登るのかと考えるとさすがに精神的に萎えてくる。
ヒーヒーハーハー息切れしながらやっとこさ急坂を登りきると、そこはPhu村への入口、古式ゆかしい石積みの彩色された門が堂々と設えてあった。
門をくぐり、いよいよPhu村の領域内へと足を踏み入れる。(写真)マニ石の列を右手に見ながらさらに奥へ進む。

高い位置に造られた門をくぐった先には、草木のまったく無い岩山・土山の山肌をトラバースするように造られた道が、川に沿ってずっと先まで続いているのが見える。このあたりの光景も感動的だ。

道を進むと、極端に狭い渓谷の対岸にPhu村を外敵から守ってきたのだろうか、緻密に積み上げられた石積み城壁が見えてくる。地図上で「Rulned Fort」と記されている古い城砦跡だ。双眼鏡を使って良く見てみるとけっこう手の混んだ造りをしている。
でもいったいどうやってあんな孤立した狭くて危険な岩の上にあのような城塞を築くことができたのだろう。魔術でも使ったのだろうか?と思えるほどの不思議な光景だ。
城塞跡を左に見ながら山道をさらに奥へ進む。

谷の奥に雪を頂いた高山が見えてきた。Pokarkang(6,372m)だろうか? それとも、その奥にあるチベットレンジなのだろうか?

日が傾きかけた頃、歩き始めて8時間超、やっとPhu村に掛かる吊り橋脇に到着した。
そこからPhu Khola対岸の馬蹄形状に凹した台地に造られたPhu村と隣接する大きなゴンパ群が見える。
陽の光は山の頂上付近を照らすだけになり、急激に気温が低下していく。
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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 4 … 海外・WanderVogel2021/07/27

phu近くのthorten群
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写真:Kyang村からPhu村への途中の道端に建てられたChorten群、2018年12月

石を積んだだけの小さなバッティの囲炉裏端で粗末な食事を取ったあと、僕とガイド、ポーターの3人はKyang村を後にした。
渓谷左岸の垂直に切り立った岩壁を、ヤク1頭がやっと歩ける幅と高さにくり抜いて作られた道をひたすら進む。
この3日間、バッティで出会う村人の他には道端で出会う人も皆無で、無人の荒野を3人で黙々と歩いている。

周りは圧倒的な景色で、とにかくすごい光景が広がっている! 赤みがかった土色の山々と群青色の空。
水の音もしない、風の音もしない、静寂の中、3人の足音だけが聴こえる。
Phu川岸の切り立った岩肌や急斜面をトラバースして付けられた細く危なげな路を無言で歩いていく。

岩山ばかりで放牧地としてはまとまった広さの場所が取れないからだろう、荒れた台地の狭いテラスのひとつひとつをていねいに無駄無くカルカとして使っている。川の対岸にはヤクの道らしき踏み跡がたくさん付けられているのが見える。


しばらく歩くと、Phu川とLoha kholaの分岐点に行き当たる。そこを通過すると、いったん河原付近まで下って行く。このあたり、Phu川にいくつかのの小さな木橋が架けられていて、冬期間、積雪で左岸沿いの道が閉ざされた場合、右岸の河原沿いの道を交互に使えるように両岸に踏み跡が付けられているのが見てとれる。

すでに標高は4,000mを越えている。水分補給を意識しながら休憩を挟みながらゆっくり進む。
登りの一歩一歩が息切れしだしてきた。

前方に美しい大型のチョルテン群が見えてきた。(写真)
鮮やかな彩色が残る古いチョルテンがいくつも建てられているので、ひとつひとつつぶさに見て回ろう。
よく見るとチョルテンの須弥座壁面には仏像や素朴でコミカルな動物模様のレリーフが付けられているのが解る。しかし、レリーフも屋根も塔身部分も風雨による損傷が大きい。管理や修復の手が行き届かないのだろうが、この環境と定住人の少なさを見るとそれもうなずける。

意識して周りを見回してみると、なかば崩れ土に帰ろうしているチョルテン群がいくつか見られる。
道に点在する無数のマニ石たち。ひとつひとつには経文が梵字でていねいに掘り込まれている。

それにしても、この荒涼とした世界と神秘的なチョルテンとの対比はどうだ!
なぜにこんなにも厳しく絶望的な地をチベット族はあえて選ぶのだろう? と不思議な気持ちになる。

世界中にあるさまざまな宗教の建造物や造形物のなかでも、チベット仏教のそれは群を抜いて特異なものだと感じてしまう。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出3 … 海外・WanderVogel2021/07/25

ギリシア・ミストラ 1979秋
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写真は1979年秋に訪れたギリシア・ペロポネソス半島の南、ラコニア平原にあるビザンチン時代の村ミストラス。パンタナサ尼僧修道院と眼下に広がる広大なオリーブ畑

ギリシア・ペロポネソス半島の中ほどに、ビザンチン時代の教会や修道院が残っている遺構がある。ミストラ(ミストラス)だ。

ペロポネソス半島でどうしても訪ねたい場所が2つあった。ひとつはミケーネ、そしてもうひとつがこのミストラスだった。

オスマントルコによるビザンティン帝国コンスタンティノープル陥落(1453年5月29日)後も、しばらくミストラは滅ぶことなく存続し続けた。
1825年、ギリシャ独立戦争の際、オスマン帝国のアルバニア軍によって徹底的な攻撃を受けてミストラスは壊滅、廃墟と化し現在に至る。

ミストラスはタイエトス山の中腹から山頂にかけての急斜面に築かれたビザンツ時代後期の城塞都市だ。
当時の宮殿や村人の住んでいた家屋などはあらかた廃墟となってしまっているが、アギア・ソフィア教会、聖ニコラウス教会、パンタナサ教会、聖ディミトリオス教会など教会施設(ギリシャ正教会)はかろうじて残され建物としての姿を保っている。

僕は1979年の秋にここを訪れた。
ミストラスに一番近い村であるスパルティ村に宿(YH)を取り、そこからローカルバスで向かった。
バス停は遺跡からずいぶんと離れたところにあった。遠くに見えるタイエトス山を目指して広大なオリーブ畑の中を一人でとぼとぼと歩いた記憶がある。
不自然にねじ曲がったオリーブの老木が、まるでマニエリスムの絵画のようで気味が悪かったのを覚えている。

穀物がまったく自給出来ないギリシア地方にあって、ここ(ラコニア平原)だけは紀元前から耕作が盛んな地域だったと言う。アテネ(イオニア人)やテーベ(アイオリス人)など穀物をオリエントからの輸入に頼っていた古代ポリス社会にあって、ドーリア人であるスパルタだけは例外的に穀物の自給が出来る農業ポリスを形成していた。
スパルタと聞くと、ギリシャ世界で最強の陸軍兵士の国とか厳しいスパルタ教育の軍事国家というイメージがあるが、意外に農業国家でもあったのだ。もっとも、実際に農業に従事していたのは征服民族のドーリア人ではなかったのだろうけど。


遺跡には人っ子一人いなかった。崩れた廃墟の続く急勾配の坂道を上へ上へと登って行くと、写真にある「パンタナサ教会/尼僧修道院」(14~15世紀建造)に行き着いた。
建物は純粋なビザンティン様式とは少し違い、イタリア建築(初期ルネッサンス)の影響が認められるということだが、全体の持つ趣きはビザンチン建築そのものだった。
美しいポルティコを持つテラスからの眺めは見事で、眼下には「ミストラス様式」と呼ばれる独特のスタイルで建てられた美しい教会、聖ディミトリオス教会が見えた。

さらに上にある高台からは、どこまでも続くオリーブ畑の向こう側にラコニア平原とスパルティ(スパルタ)の町が見渡せた。


その後、ミストラスの遺跡群は、1989年に世界遺産「ミストラスの考古遺跡」に登録されることになる。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 3 … 海外・WanderVogel2021/07/22

kyang村とchorten
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写真:朱色に塗られた基壇の上に載る彩色されたマニ石群とchorten、2018年12月、kyang村にて

Phuへの旅/記録 3
Kotoを出発し3日目、Phu Khola(プー川)河畔の少し上に出来た高台に出る。標高3,890mにあるKyang村だ。

ヒダのような支尾根を巻いてアップダウンを幾度も繰り返しながら、荒れた小石まじりの道は延々と渓谷の奥へと続いている。
美しい景色に元気づけられテンポ良く歩き、kyang村に到着した。村にはカマドの煙一筋も見えず、人影も見えず、一切が静寂に包まれていた。

トレッキング初日は思いがけず積雪に見舞われ、昨日も気温がグッと下がり地面は凍てつき、体調も風邪気味で元気が出なかったが、今日は快晴で高度を上げていることも忘れるくらい気分は上々だ。空の色がだんだんと濃くなり、紫外線量も増えてきているのが実感出来る。

Kyang村の入口付近には、朱色に塗られた基壇の上にブルーで彩色された石に梵字が刻まれたマニ石が並んでいる。(写真)
この地域だけに見られる独特の意匠だ。
乾いた土色の岩山をバックにとても幻想的な光景だった。

一昨日、昨日と同様にKyang村でもひとけがまったく無く、かろうじて一軒だけやっていたバッティというか民家に入る。
朝食を食べてからまだそれほど間もないのだが、ここで何か食べておかないと目的地のPhu村まで途中に村も民家もない。この先Phu村に着くまで、お茶一杯飲むことも出来ないのだ。
とりあえず白米だけを頼み、ふりかけをかけお茶をぶっかけて無理矢理胃の中に流し込んだ。食事をすると言ってもオーダーを聞いてからおもむろにご飯を炊き始めるわけなので、けっこう時間がかかるものである。圧力鍋で炊きあがったご飯をガバガバっと掻き込む。

ご飯が炊きあがるのを待っている間に、村の古い家屋群を見て回る。
Kyang村には、チベッタン風の石積み壁に陸屋根の古い家屋が多く残されている。普段使われていない感じが見受けられるので、やはり冬期間だけの使用なのだろう。もはや住居としてではなく、家畜小屋として使われている家屋も多く見られた。

家屋は周りの岩を砕いて壁などの建築材料としているので、完全にまわりの景色に溶け込んでいる。色彩的に完璧にカモフラージュされているので、遠望からはなかなかその全貌が見えてこない。ところどころに立てられているタルチョーの鮮やかな三色の旗が村の存在、家屋のありかをかろうじて主張しているかのようだ。
屋根は陸屋根で木材を架けて下地としその上を土で覆った構造だ。家屋のなかには屋上に植物(雑草)が自然に生えてきている姿も見られるが、これは意図したものではなく、単に管理がなされていない証拠だろう。本来陸屋根上では収穫物を干したり、作業場として使われることが多いので、土を敷いたままきれいに掃除がなされているはずだから。

バッティの主に聞いてみると、この村は本来ここより奥にあるPhu村の冬の村として昔から使われてきたということだったが、最近はもっと下の大きな村まで下って越冬をするのだという。これも時代の流れなのだろう。

決して広くはない高台に作られた草地は、ヤクなどのカルカ(草地・放牧地)として使われていて、ヤクや馬がかろうじて残された枯れた草を食んでいた。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 2 … 海外・WanderVogel2021/07/17

Phu川の風景 2018年初冬
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写真:トレッキングの途中足を止め、振り返って見たPhu川の風景 2018年12月

Phuへの旅/記録 2
現地のcheck postでもらった1枚のリーフレットによると、この地域が一般の外国人クライマーに開放されたのは1991年10月からとあるが、別の情報では一般トレッカーへの開放は今世紀に入ってからの2003年だと記されている。いずれにせよ、つい最近まで一般旅行者の立ち入りが厳しく制限されていた地域、ということだ。
ただ、このルートは、Himlung (7,126m) BaseCampへのアプローチルートになっているので、マイナーながらも一部のクライマーには多少知られてはいた。

アンナプルナサーキットやエベレスト方面の主要なトレッキングルートと違い、設備の整った宿があるわけでもなく、名の知れた山がどーんと見える!というわけでもない。そのわりに往復にけっこう日数を喰われるので、訪れるトレッカーが極端に少ないのかもしれないが、もともと情報が少ないが故に不安要素があるというのも大きな要因だろう。netで検索しても日本語での情報がほとんど見つからなかったのはそう言うことなのかもしれない。

今回の山旅で目にし体験した荒涼として殺伐とした乾いた大地、趣きのある大きなチョルテンとゴンパ、城砦のようなphu村の佇まい、風俗,暮らしぶり、民家の囲炉裏端に吊るされた干涸びたヤクの干し肉、など、昔旅した「チベット」や「ラダック」を思い出させてくれるような異世界だった。

Naar Phu Valleyの高標高で極度に乾燥した渓谷には、ボティア(Bhotiya)の人々が何世紀にもわたって住み暮らしてきた。この地は今でも文化的にも宗教的にも完全にチベット文化圏に入る。
この地方の住民のほとんどが今でもチベット語を話せ、読み書きも出来るのだという。普段、Nar Phuの人々は「ナル語」というこの地域独特の言語を使っている。ナル語(Nar)は、Nar Phu地方のナル (Nar)とプー(Phu)の2つの村の住民の間だけで話されている超マイナーな言語なのだそうだ。

Naar Phu Valleyは、北と北東でペル山脈を境に中国・チベット自治区と国境を接し、西北はダモダル山脈でムスタン(王国)と隔てられている。その他の西側と南側、東側はいずれも5,000m~6,000m級の高い山々が屏風のように立ちふさがっている。


Naar Phu Valleyを歩くには、ネパール国内でのトレッキングで通常必要な2種類の許可証TIMSとACAPに加えて、特別な Permit(許可証)が必要になる。
さらに、ガイドを連れていたとしても、外国人一人でのトレッキングは認められていない。外国人2人以上の行動が入域の条件となっていて、谷入口のチベット風の門の手前に建てられたcheck postでしっかりチェックされる。
(今回、現地ガイドとポーターを連れていたとはいえ、単独行の僕が正式なPermitを取得出来たのにはちょっとした訳があるのだが、詳細は省く。)

Naar/Phu khola入域のPermit Feeは、9月~11月までは週一人あたりus$90、12月から8月までが週一人あたりus$75とけっこう高額だ。この額はMustangへの入域Permit Feeに比べるとまだ格安なのだが、Mustangの対象エリアと比べるとこちらはかなり狭いエリア(基本的にはNaar/Phuの2村)なので、一般トレッカーにとってこの値段設定はやはり高額にうつる。

Permit Feeの支払いは、空港での入国Visa取得と同様にアメリカドルキャッシュでの支払いしか出来ないので注意が必要だ。ネパールルピーで支払おうとしてもダメなのである。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い /リスト2 … 海外・WanderVogel2021/07/16

1979年イラン国内の小村にて
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写真:1979年イラン国内の小村にて、人と物資を運ぶコンボイ。アジアハイウェー1号線

これまでに旅をした中近東・南アジアについて 2

2:ヒマラヤ以外の辺境/山旅:イスラム圏/ヒンドゥ教圏

・(Pakistan) バローチスタン高原:クェッタ~Sandy Desert横断~イランボーダー

・(Turkey) アナトリア高原:エルズルム~カイセリ~カッパドキア~コンヤ

・(India) タール砂漠:ジャイプール~ナワルガル~ジョードプル~ジャイサルメール~ウダイプル~アーマダバード

・(Iran) ルート砂漠/カビール砂漠:ザヒダーン~ケルマーン~シラーズ~ペルセポリス/ナクシュ・イ・ルスタン~ヤズド~イスファハン

・(Malaysia) ボルネオ島/熱帯雨林:コタキナバル
       マレー半島:コタバル~クアラトレンガヌ~クアンタン、ペナン/ジョージタウン

・(India) タミルナードゥ:ブバネシュワール~カンチプラム~ボンディシュリ~マドゥライ~ラメシュワラム~カニャクマリ

番外:
・(Morocco) サハラ砂漠:マラケシュ~ワルザザート~ティネリール~メルズーガ~リッサニ~フェズ

・(Swiss) スイスアルプス:グリンデルワルド~ミューレン~グリュイエール

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