西丹沢の古道/杣道の跡を偲ぶ・馬頭観音 … 山歩き・WanderVogel2015/02/02

西丹沢水の木沢の馬頭観音
- -
昨日の西丹沢、世附川上流部「水の木沢」遡行の続きです。

世附川沿いに走る「水の木林道」や大又沢沿いに走る「大叉沢林道」の本来の目的は、西丹沢の木材を切り出すための林業作業道でした。(今でももちろんそうですが。)
この林道、実は昭和9年から昭和41年にかけては「世附森林鉄道」という材木切り出し/運搬用の軌道が通っていたところです。
軌道が廃止され、そこを改修(レールや軌道施設を撤去)して、車が通れるように作られたのが今の「水の木林道」「大叉沢林道」になります。
丹沢湖(三保ダム:1978年(昭和53年)完成のロックフィルダム)が出来るずっとずっと前の話しです。


軌道が引かれるまではもっと山の中の尾根や鞍部(峠)を結んで、山北集落と山中湖(旧平野村など)をつなぐ杣道・古道が通っていて、様々な物資(用材、薪や炭、生活必需品など)が馬の背に載せられてその山道を行き来していました。

日本では昔から、街道にせよ生活の道にせよ、山を結んで付けられることが多く、沢沿いに歩くことはあまりありませんでした。
欧米人はよく「日本の川は滝のようだ」と言いますが、十数年前の中川川(同じく丹沢湖の注ぐ支流のひとつ)の氾濫でも記憶されているように、日本の川の多くは大雨が降るたびに氾濫を繰り返して来ました。

ですので、日頃使われる道(街道も山道も)というのは山の尾根やその間にある鞍部をうまくつないで、山の弱点を突くようにして「道」が付けられていました。
山の斜面や鞍部に付けられた山道は相当な傾斜がありましたが、いつ氾濫して崩れるか解らないような川沿い・沢沿いに道を作るよりもよほど安全だったのです。

丹沢の山道の運搬には主に馬(駄馬)が活躍していしましたが、急斜面などでは人の引くソリや人の背も使われました。

東北地方では馬よりも牛の方が狭くて急な傾斜でも難なく登り降りが出来るのことから、主に荷役には牛が使われていた、と聴いたことがありますが、西丹沢では馬が主流だったのでしょう。


西丹沢の古道・杣道にはいくつかのルートがありますが、丹沢湖以西では「道」は山中湖(旧平野部落など)方面あるいは駿河小山あたりと密接につながっていたようです。
昔はこの辺りの山(世附山と呼ばれていたようですが)は、山北とのつながりよりも(今の静岡県側の)山中湖周辺の部落とのつながりの方が濃かったということなのでしょう。

世附川を浅瀬の集落から少し遡った大叉沢出合付近で対岸(右岸側)に渡り、目の前の尾根に突き上げると静岡県との県境「世附峠」に出ます。
世附峠をそのまま南へ下ると柳島を経て、駿河小山へと出ることが出来ます。
また、世附峠から稜線上に西に進むと「明神峠」「三国峠」を経由し、山中湖(旧平野村)へと下っていきます。

世附川を流れに沿ってさらに遡っていくと、沢はやがて大棚沢と本谷に分かれます。
右岸側から流れ込んでくる大棚沢を遡れば「切通峠」に至り、同じく山中湖(平野)へと下って行くことが出来ます。この古道は山北の集落と山中湖(旧平野村)をつなぐメインの古道・杣道だったようです。

本谷は菰釣橋付近でさらに金山沢と水の木沢に分かれます。
右岸側から合流する金山沢を遡れば、大棚ノ頭に突き上げて山伏峠に至ります。また、水の木沢を遡れば、大栂や菰釣山(こもつるしやま:1379m)に至ります。
そこを越えれば道志方面へと出ることが出来ます。

その水の木沢と金山沢の合流する地点(水の木集落・馬印)で、「織戸峠」から下ってくる杣道・古道と合流するのですが、以前あった橋(吊り橋?軌道の橋?)はずいぶん昔に崩落してしまったのでしょう。橋脚らしき石組みの基壇だけが苔生してわずかに残されているのが見えます。

この古道は古来より、山北の集落と山中湖(平野)をつなぐメインの道で、山を越えて(中川川右岸から二本杉峠を越えて?)大又沢に入り、そこから法行沢、上法行沢と遡り織戸峠を通って水の木集落へと下る杣道でした。

その古道跡に「馬頭観音」(奥)と小さな像の置かれたお墓(手前)が立っています。
山中湖村(平野部落など)の人々が、駄賃稼ぎのために使った馬の供養のために建立したものだと思われます。
古い資料の中に、昭和の初めにこの近辺でも盛んに馬頭観音が祀られた、と言う記述があったので、もしかするとそのころのものなのかもしれません。

西丹沢の山中にはたくさんの古道・杣道、峠道があって、その要所要所には「馬頭観音」が祀られています。


この西丹沢を舞台として、天保12年(1841年)に「国境押領出入」として有名?な、相州(そうしゅう:相模の国:今の神奈川県)と駿州(すんしゅう:駿河の国:今の静岡県)の6ヶ村18名を相手に甲州(こうしゅう:甲斐の国:今の山梨県)平野村(今の山中湖村)名主勝之進が訴訟人となって、当時の中央政府(幕府)に告訴した事件「相甲国境紛争」が起きるほど、山の資源に恵まれた山域だったのですね。
終結まで6年の歳月を要したというこの裁判により、現在の神奈川県・静岡県・山梨県の県境が始めて確定したという、歴史的な裁判結果だったといいます。

西丹沢の渓流や古道をたくさん歩いてみると、この地域の歴史的なことや周辺とのつながり、昔の杣人の暮らしぶり、交易などでの人の行き来についていっそう興味がわいて来ます。

アクセスカウンター