「明治大正の生糸産地と横浜」展 … 三渓園/文化財保全・HM2014/06/02

生糸産地と横浜 展
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一昨日(5/31・土)、三渓園でのガイドボランティアの帰りに横浜開港資料館で開かれている「蚕の化せし金貨なり」明治大正の生糸産地と横浜 展を見てきました。

実はこの展示会を見に行くきっかけは、同じガイドボランティアの方からの勧めがあったからですが、なかなかよくまとめられていて興味深く面白い展示会でした。

三渓園を造った原三渓翁(原富太郎)は明治期に生糸商・生糸の輸出で財を成した偉人で、明治維新後の日本国の財政の屋台骨を支えた生糸産業の発展にも深く関わった明治の豪商であり政治家でもあった人です。
そういった関係から、三渓園の成り立ちや原三渓翁をよく知る上では欠かせない事柄がまさしく「生糸・シルク」というわけなのです。

ついこのあいだ、世界文化遺産に推薦された群馬県富岡市に残されている「富岡製糸場」の経営にも参画していることからも「生糸」とのつながりが深く、製糸場と横浜(文明開化の日本)とをつなぐ、まさしくタイムリーな展示企画だと思います。

明治5年にフランスの建築技術と日本に大工の技を生かして建設され、当初は最新鋭の官営製糸場としてスタートしたこの「上州・富岡製糸場」は、一時期三井家に払い下げられその経営となっていましたが、明治35年に原商店(原三渓)が経営を引き継ぎ、明治・大正・昭和初期を通じて日本最高水準の生糸を生産し続けました。

その後、製糸場自体は昭和14年に片倉製糸紡績と合併して生産を続け、戦中・戦後も生糸を生産し続けていました。
(そのへんの経緯は、富岡製糸場HPに詳しく書かれています。)

三渓園に移築されている茅葺き屋根の「旧矢箆原家住宅」ももちろんそうですが、日本中の多くの茅葺き屋根の農家がそうだったように(ある調べでは、日本の農家のうちの約4割!が、養蚕を手がけていたともいわれています)、小屋裏で作られていた「おカイコさん」が様々な場所の製糸場での加工を経て横浜に集まって来たことを考えると、いろいろなものが目に見えない糸で皆つながっているように感じます。


もっとも、何ごとにも「功・罪」両面の姿があります。
生糸の大量生産→海外への輸出→国家財政や大企業の懐が潤う、という経済メカニズムの陰では、日本の山の木々の大量収奪(蚕の生産や生糸を作るための燃料等)による生態系への影響、蚕のエサとなる桑の葉を生産するために行なった焼き畑等の里山から深山の大開発といった、自然に与えるインパクトの大きさはかなりのものだったのではないかと想像出来ます。
(もちろん、展示会場内では日本の経済発展と繁栄に功を成した記述のみで、罪については冊子の中の記述にもいっさい書かれてはいないけどね。)

ただいずれにせよ、生糸・シルクが明治・大正の近代日本の礎を作るにあたって、大きな財政的な下支えをしてきたことは確かですし、その功績は何といっても大きい。

実際、その稼いだお金で近代日本は軍艦を買い、西洋式の工場を建て、善くも悪くも(欧米諸国に植民地化されずに)当時の列強並みの地位をかろうじて保持することが出来た、と言えなくもない。

(書き進めているうちに、話しがあらぬ方向に飛んでしまった。)

上州富岡製糸場を見る:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/10/15/

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