明治5年建設の上州富岡製糸場 … 邸園/文化財保全・HM2012/10/15

上州富岡製糸場
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ユネスコ世界遺産リストに載せられた「富岡製糸場」を見てきました。

以前から気になっていましたので存在は知ってはいましたが、実際に見に行くのは始めてでした。

まずは、広大な敷地(約1万6千坪)に点在する、数多くの施設建物の大きさとその美しい姿に圧倒されます。
ずっと継続的に最近まで製糸工場として使われていたわけですから、その時代その時代に合わせて改造されているとしても、明治時代に建てられた主要な棟(繰糸場、繭倉庫、首長館、検査人館、社宅など)がそっくりそのまま、よくこのようなきれいな状態のまま残されていた、ということに改めて驚かされます。

造られたのは明治5年(1872年)ですが、この製糸工場建設を決めたのはその2年前の明治3年2月といいますから、戊辰戦争が函館で完全に終結してからわずか半年足らずの時期です。
また、ヨーロッパ諸国やアメリカ・ロシアなどの列強がアジア諸国を次々に植民地化していき、それに合わせて独立運動が激化していく時期にも重なります。

そのような世界情勢の中ですから、そうとう日本も近代化(富国強兵)を急がされる必要に迫られていたんだろうと、当時の指導者たちの“焦り”が想像できます。

日本国内にしても明治維新の後始末でゴタゴタがまだ納まっていない時期に、付け焼き刃的ではないこのような規模・技術で造り上げた国家の決断にも驚かされます。
当時、世界最大規模の製糸工場だったというからまったく驚きです。

技術指導と建物の設計者はフランス人(ポール・ブリュナ、オーギュスト・バスティアン)ですが、当時の日本にはレンガを焼く工場もありません、ガラスも国産では大量に作ることなど出来ませんし、建築で使うような鉄鋼部材にしても本格的な精錬工場が稼働するのはまだ先の時期です。
ですので、当時の日本の大工や石工、瓦職人らと一緒に 構法指導についても、使用資材の選定から調達についても(工期も設計期間も無いなか)大いに議論を戦わせながら実施に向かって突き進んで行ったのだろうと想像できます。
どうしても日本で作ることの出来ないもの(緊結用ボルト・ナット、スチールの窓枠、蝶番など)は、フランスから船で運んできたということです。

主要な建築物である「繰糸場」や「東西繭倉庫」の木骨構造は軸組(全ての柱が通し柱・杉柱)とボルト接合による合わせ梁で構成され、日本建築の特徴である仕口をまったく使っていません。

屋根は和小屋組みではなく、西洋的なトラス梁(松梁)を組み合わせることで幅12mの大スパンを飛ばすことを可能にしています。
これには当時の大工さんも大いに戸惑ったことが想像できます。

構造やディテールは完全に洋風ですが、面材となる流麗なフランス積みで積まれたレンガの壁は、セメント接着ではなく漆喰で接着されている点が日本風です。
解説によると、地震の多い日本でこの構造が現在まで崩れずに残っている要因のひとつは、レンガの接着/目地に日本古来の技術である漆喰(下仁田町の石灰が原料)を使った点にあるそうです。

レンガは瓦職人の手になるもので、近くの甘楽町に窯を作ってブリュナの指導のもとで焼き上げたといいます。

・・・つづく

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