シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出4 … 海外・WanderVogel2021/07/31

イラン・ペルセポリス 1985年秋
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写真:1985年秋、イラン・ペルセポリス遺跡、一人の訪問者もいない無人の遺跡群にて

イラン南部ファールス州シラーズ近郊の土漠地帯に、紀元前500年ころ世界の中心と呼ばれたアケメネス朝ペルシアの都ペルセポリス遺跡がある。
紀元前330年、アレクサンドロス大王によって徹底的に破壊、略奪され、さらに焼き討ちされたことにより完全に廃墟となり、2,300年以上の時が経過した。

ここを訪れたのは1985年秋、イラン・イラク戦争のまっただ中の時期だった。
そのせいだろうイラン国内を旅していても、外国人の姿を見かけることはまったく無かった。

シラーズの町で宿を取り、個人タクシーの運ちゃんと交渉し、ペルセポリスとナクシュ・イ・ルスタム(ナクシェ・ロスタム)の遺跡を往復してもらった。
ナクシュ・イ・ルスタムは、ダレイオス1世やクセルクセス1世などアケメネス朝時代の王の墓があるところで、岩山の壁に十字形をした4つの王墓が彫られていることで知られている。

タクシーの運ちゃんに行き先を説明するのに、どうしても「ペルセポリス」(直訳するとペルシャ人の都という意味で元々はギリシャ語だ)という単語・地名が通じず、「ナクシュ・イ・ルスタム」と言ってやっと通じた記憶がある。ナクシェ・ロスタムとは「ロスタムの絵」という意味で、王墓をさす言葉ではないのだが、そういう地名で呼ばれている。
ナクシュ・イ・ルスタムとペルセポリスとは直線距離にして5~6Kmしか離れていないので、そこを目指して行けばあとは走りながら指示すれば良かろうと考えた。現地のタクシーの運ちゃんにとって1980年代中頃ではそれほど観光名所でもない「ペルセポリス」に客を運ぶことなど無かったのだろう。
ともあれ、シラーズの町から車で向かえば、まずはペルセポリスが先に見えてくるはずだ。
(その時、僕はペルセポリスが現代ペルシャ語でタフテ・ジャムシード(ジャムシードの玉座」の意)という地名で呼ばれているのを知らなかった。)

1985年当時、遺跡内は閑散としていて、併設する博物館施設(出土した遺物などを納めているらしいのだが、一見するとバラックに見えた)は建設中だか整備中だかで入れなかった。
案内板も柵も何も無く、どこでも入れたし入場に際しても制限は何も無かった。ただ、ここには陽射しを遮るものがまったく無く、ひたすら暑かった。


壮大な規模で造られた「アパダーナ」は、残された何本かの巨大な柱を見るにつけその大きさに圧倒される。
広大な遺跡に散らばる断片すべてに精巧なレリーフが施されているのを見ると、破壊前がどれほど華麗で優美であったかが想像出来る。
写真に写っている双頭のグリフィンの柱頭は特に美しいものだった。

ペルセポリスは、1979年(イラン革命時)にはすでにユネスコ世界遺産に登録されている。

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