金沢道に祀られている石塔たち・馬頭観音 … 文化探訪・WanderVogel ― 2015/12/20
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金沢文庫駅から5分も歩くと、六国峠ハイキングコース入口と言う山道への登り口に着きます。
鎌倉時代に整備されたという「金沢道・かねざわみち」の一部が、能見堂緑地内の尾根上に残されています。
登り口から能見堂跡に登り着く手前の径沿いに、三基の石塔が並んでいます。
その内の二基は、文化12(1815)年に建てられたもので、道改修供養塔と百番観音塔だといいます。
もう一基(写真左側の少し傾いている石塔)は、天保11(1840)年に建てられた馬頭観音です。石塔の表に「馬頭観世音」の文字と「天保十一子年 四月吉祥日」の文字が刻まれています。
能見堂跡には享和3(1803)年に建てられたという、「金沢八景根元地」と刻まれた石碑が残されています。
明の渡来僧・心越禅師が金沢八カ所の勝景を漢詩に詠んだことで「金沢八景」という名称が定まったということから、それを記念しての石塔ということか。
金沢道(かねざわみち)は、東海道五十三次 程ヶ谷(ほどがや)宿(現 保土ヶ谷駅)の先の、金沢(かねざわ)横町から金沢の六浦陣屋(現 金沢八景駅)へ到る道を指します。
六浦陣屋から先、朝比奈切通しを経て鎌倉へ通じる道は「鎌倉道」といい、二つを合わせて、金沢鎌倉道とも呼ばれていました。
金沢道の行程は、金沢八景(六浦陣屋)→ 瀬戸神社 → 町屋 → 金沢文庫・称名寺 → 能見台 → 栗木 → 打越 → 上大岡 → 弘明寺 → 蒔田 → 岩井 → いわな坂 → 程ヶ谷へと続いていました。
金沢八景(六浦陣屋) からは、鎌倉へ向かう「鎌倉道」と、浦賀に向かう「浦賀道」とに分かれます。
「鎌倉道」には3つの道があったといいますが、六浦から鎌倉へと通じる鎌倉道は江戸時代は「鎌倉街道下道(しもつみち)」と呼ばれる街道でした。
また、鎌倉時代から室町時代にかけては、鎌倉とその主要な湊「六浦(むつら)」を結ぶ大動脈として、「六浦道(むつらみち)」と呼ばれていました。
六浦陣屋から上行寺、光伝寺と進み、大道というところの岩壁面にかろうじて?残っている鼻欠け地蔵という磨崖仏を見ながら脇の侍従川沿いに進みます。
まもなく道は左に折れ、山道に入り朝比奈の切通しへと続いて行きます。
一方、「浦賀道」の方は六浦陣屋跡から追浜方向に進み、ちょうど16号の横浜と横須賀の境(武蔵国と相模国の国境)に当たる交差点に傍示(ほうじ)堂石塔群という地蔵がたくさん集められて祀られている社の前を通って、雷(いかづち)神社を抜け、追浜駅方向に延びていたといいます。
この辺りは、今では広々とした見通しの良い交差点だが、僕が高校生くらいの時までは、京急線も16号も切通しで抜けていましたし、現在マンションの建っている場所は完全に山でしたので、その頃までは少しは峠越えの街道の面影が残っていたんですかねぇ。
雷(いかづち)神社から先も、築島(もともと雷神社があったところ)、浦郷陣屋跡、良心寺、首切り観音、など浦賀道の名残りが横須賀方向に向かって今もたくさん点在しています。
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金沢文庫駅から5分も歩くと、六国峠ハイキングコース入口と言う山道への登り口に着きます。
鎌倉時代に整備されたという「金沢道・かねざわみち」の一部が、能見堂緑地内の尾根上に残されています。
登り口から能見堂跡に登り着く手前の径沿いに、三基の石塔が並んでいます。
その内の二基は、文化12(1815)年に建てられたもので、道改修供養塔と百番観音塔だといいます。
もう一基(写真左側の少し傾いている石塔)は、天保11(1840)年に建てられた馬頭観音です。石塔の表に「馬頭観世音」の文字と「天保十一子年 四月吉祥日」の文字が刻まれています。
能見堂跡には享和3(1803)年に建てられたという、「金沢八景根元地」と刻まれた石碑が残されています。
明の渡来僧・心越禅師が金沢八カ所の勝景を漢詩に詠んだことで「金沢八景」という名称が定まったということから、それを記念しての石塔ということか。
金沢道(かねざわみち)は、東海道五十三次 程ヶ谷(ほどがや)宿(現 保土ヶ谷駅)の先の、金沢(かねざわ)横町から金沢の六浦陣屋(現 金沢八景駅)へ到る道を指します。
六浦陣屋から先、朝比奈切通しを経て鎌倉へ通じる道は「鎌倉道」といい、二つを合わせて、金沢鎌倉道とも呼ばれていました。
金沢道の行程は、金沢八景(六浦陣屋)→ 瀬戸神社 → 町屋 → 金沢文庫・称名寺 → 能見台 → 栗木 → 打越 → 上大岡 → 弘明寺 → 蒔田 → 岩井 → いわな坂 → 程ヶ谷へと続いていました。
金沢八景(六浦陣屋) からは、鎌倉へ向かう「鎌倉道」と、浦賀に向かう「浦賀道」とに分かれます。
「鎌倉道」には3つの道があったといいますが、六浦から鎌倉へと通じる鎌倉道は江戸時代は「鎌倉街道下道(しもつみち)」と呼ばれる街道でした。
また、鎌倉時代から室町時代にかけては、鎌倉とその主要な湊「六浦(むつら)」を結ぶ大動脈として、「六浦道(むつらみち)」と呼ばれていました。
六浦陣屋から上行寺、光伝寺と進み、大道というところの岩壁面にかろうじて?残っている鼻欠け地蔵という磨崖仏を見ながら脇の侍従川沿いに進みます。
まもなく道は左に折れ、山道に入り朝比奈の切通しへと続いて行きます。
一方、「浦賀道」の方は六浦陣屋跡から追浜方向に進み、ちょうど16号の横浜と横須賀の境(武蔵国と相模国の国境)に当たる交差点に傍示(ほうじ)堂石塔群という地蔵がたくさん集められて祀られている社の前を通って、雷(いかづち)神社を抜け、追浜駅方向に延びていたといいます。
この辺りは、今では広々とした見通しの良い交差点だが、僕が高校生くらいの時までは、京急線も16号も切通しで抜けていましたし、現在マンションの建っている場所は完全に山でしたので、その頃までは少しは峠越えの街道の面影が残っていたんですかねぇ。
雷(いかづち)神社から先も、築島(もともと雷神社があったところ)、浦郷陣屋跡、良心寺、首切り観音、など浦賀道の名残りが横須賀方向に向かって今もたくさん点在しています。
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