山の自然素材を使って作るアート(ミドリハコベ) … Nature Art・Workshop2021/09/11

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:ミドリハコベ
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

ミドリハコベ(Stellaria neglecta):ナデシコ科ハコベ属の越年草。
(画面上ではコハコベとしているが、ミドリハコベが正しい)
ドライフラワー化した後もしばらくは茎の緑色は長持ちする。時間が経てば全体的に枯れ色となるが、その色合いもなかなかシックで良い。
花(果実)の付いた部分だけ無柄の小葉のみ残して、他の大きめの葉は取ってしまっている。分岐した枝の付き具合を見ながら、画面上にレイアウトするのが作品づくりのキモとなる。
どこででも見かける何げない雑草のような扱いの草本だが、こうしてレイアウトしてみると、繊細でなかなかシャレていて僕の好きな題材のひとつだ。


ミドリハコベ(緑繁縷)、またはコハコベ(小繁縷):
花期は3~9月。白色の花弁を5枚だが各花弁は2深裂して10枚にみえる。ミドリハコベの雄しべは4~10個。コハコベの雄しべは1~7本。ともに花柱は3個。ミドリハコベは高さ15~50 cmで立ち上がる感じで生えていて、茎は緑色をしているが、類似種のコハコベは横に這う感じであることが多く、茎はふつう暗紫色を帯びる。
ミドリハコベの種子には、とがった突起があるが、コハコベの種子は突起は低くてとがらない、という違いがあるが、ルーペで見ないと確認出来ない。
この標本の場合は、ミドリハコベだと思われる。
良く似たウシハコベは花柱が5本あるので判別は容易だ。

ユーラシア原産で、農耕に伴って世界中に広まったとされ、北アメリカやヨーロッパでは庭草として一般的な植物。日本では史前帰化(しぜんきか)植物として扱われる。
単にハコベとしたときには、このミドリハコベのことを指すようだ。または、コハコベとミドリハコベを併せて単にハコベと呼ぶ場合も多い。
春の七草の「はこべら」はおそらく本種ではないかと言われている。春の七草の一つとして古くから親しまれていて、食用にされる。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出12 … 海外・WanderVogel2021/09/10

マハーバリプラムのパンチャ・ラタ1985年夏
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写真:マハーバリプラムの「パンチャ・ラタ」寺院遺跡群。1985年夏。

ドラヴィダ系タミール人の王朝パッラヴァ朝の首都がおかれていた内陸のカーンチプラム(古名カーンチー)から東に65Kmの距離にあるベンガル湾に面したマハーバリプラム(古名マーマッラプラム)は、かつての東西貿易の拠点・国際港湾都市だった。


インド亜大陸南端の東側海岸沿いで栄えたパッラヴァ朝はAD3世紀後半から9世紀末までと古代インドでは比較的長い期間栄えた王朝と言える。同時代、北インドではグプタ朝とハルシャ・ヴァルダナ朝が栄え滅亡し、デカン高原では同様にドラヴィダ系のヴァーカタカ朝、チャールキア朝という2つの王朝が栄え滅亡している。

南インドとシルクロード、あまり関係ないように思われるが、ここマハーバリプラムは「海のシルクロード」の重要な港であり、交易の中心都市だった。
AD1世紀頃からインド洋に吹く季節風(ヒッパロスの風)を利用した海の東西交易が盛んに行なわれるようになって、ローマ帝国や中近東からはローマ金貨やガラス器、金属細工品などが、中国・東アジア諸国からは香辛料などが大量に運ばれ行き来した。8世紀以降は陸のシルクロードに代わり、海のシルクロードが主流となっていく。
やはり、ラクダの背に載せて運ぶキャラバンよりも数倍、数十倍の規模で運べる大型船の方が理にかなっていたというわけだ。特に重量の重い壊れやすい中国陶磁器などは絶対的に海上ルートの方が効率は良い。「海のシルクロード」は「陶磁の道」とも呼ばれた。


パッラヴァ朝の時代、貿易港であったマハーバリプラムの海岸と周辺の岩山には数多くの寺院や彫刻が造営された。花崗岩の岩山を掘削した石窟寺院、岩壁彫刻、石彫寺院、石積みの石造寺院など多彩な建築群、彫刻群が今も数多く残されていてかつての栄華を目の当たりにすることが出来る。唐僧の玄奘が南インドを旅した際、ここを訪れたのではないかとも言われている。

なかでも「パンチャ・ラタ」(5つのラタ)と呼ばれる建築群は、当時の木造寺院を模しているのではとも推測されていて、狭いエリアに見どころがギュッと凝縮したとても見応えのある遺跡になっている。施設全体をひとつの岩の塊から彫出したという奇異な岩石寺院で、寺院に見立てた彫刻(現地では「ラタ」と呼ばれる)が5つあるから「5つのラタ」「パンチャ・ラタ」という名が付けられている。

柱脚や壁面に表情豊かなライオンや象、ユーモラスな小動物、神像などが刻まれたパンチャ・ラタ石彫寺院はマハーバリプラムに点在する遺跡群の中でも特に貴重な存在と言える。7世紀頃に建造されたとされるが、何故制作途中で放棄されてしまったのかはよくわかっていない。
長い期間、厚い砂の中に埋もれていて、19世紀になって発掘されたという曰く付きの遺跡である。


写真手前の寺院は「ダルマラージャ・ラタ」と呼ばれる建物で、パッラヴァ朝のシンボルであるライオンが柱脚部に掘り込まれているのが特徴的だ。階段状の屋根を持つ典型的な南方型のヴィマーナ(本堂)形式のフォルムを持つ。内部(聖堂)の造作は未完成のままいきなり工事がストップしたような感じに見える。
奥に見える尖頭アーチ型をしたヴォールト屋根を持つ寺院が「ビーマ・ラタ」と呼ばれる寺院で後に南インドで発展するゴープラム(巨大な楼門)の原型になっているとも言われている。ここにもライオンが柱脚部に掘り込まれている。ここも外装の一部と内部が未完成のままなのだが、なぜ途中で制作が止まって放棄されてしまったのか不思議だ。

写真右側に宝珠のような形状のものが落ちて転がっているのが見える。仏教建築で仏塔などの屋根の先端に載せられる「宝珠:ほうしゅ」に似ているが、ヒンドゥー教寺院でも同じようなデザインをした飾りが寺院頭頂部を飾っていた。おそらく対面に写っているダルマラージャ・ラタの屋根から落ちてしまったのであろう。

一帯は1984年に世界遺産(文化遺産)に登録された。
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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出11 … 海外・WanderVogel2021/09/08

ネパールトレッキング1980ツクチェ
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写真:1980年冬、ジョムソン街道から見上げたタカリ族の村、ツクチェ村。

カリガンダキ沿いのトレッキングの特徴は、かつてチベットとインドとの塩の交易路として栄えたシルクロードの一端「塩の道」を歩くことにある。
ここに住む人々はポカラから北、カリガンダキ下流域一帯はモンゴル系の山岳民族グルン族(Gurung)で占められ、カリガンダキ中流域からジョムソン、ムクチナート、カグベニとその上流域まではチベット系タカリ族(Thakali)が、そのさらに北側にはムスタンの先住民であるチベット系のロパ Lopaの人々が暮らしている。
ネパールには細かく分けると数十の民族が環境や社会的、歴史的制約に合わせ住み分けて暮らしている。宗教的には、グルン族はほとんどがヒンズー教徒だが、タカリ族やLopaの人々はチベット仏教徒だ。

写真はカリガンダキ沿いの河岸に造られた古くからの交易村ツクチェの様子で、1980年2月頃のものだ。
ザックを立てかけている白く塗られた石積みのものは、村の入口などによく作られているマニ車を納めた祠である。ここを通過するときはマニ車を手で回しながら左側を歩くのがルールになっている。マニ車とはチベット仏教のお経を納めた円筒状のもののことで、マニ車を手で1回回すことでお経を1回唱えたことと同様のご利益があるという大変ありがたいものだ。マニ車を納めた祠は村の周辺だけにとどまらず、街道上のあちらこちらにも造られていて、近隣のゴンパの僧や村人によってキレイに維持されてきた。

写真に写っている収穫の終った大麦畑の周りには簡易な柵が作られているが、これは作物を喰い荒らす野生動物が出没するというわけではなく、荷を運ぶヤクやロバがつまみ食いをしないように簡単に仕切ってあるだけである。
村の近くの街道の路面には不定形な割り石が敷き並べてあるが、表面がゴツゴツしていて人間にとってもヤクやロバにとってもあまり歩きやすいものではない。とは言え、交易路を行き来するヤクのキャラバン隊は結構な数に上るのでこうして石畳にしておかないとすぐに深いわだちが出来てしまい、ガタガタ道になってしまうのだ。

2021年現在、この路もジープで走れるくらいに整備され、さらにアッパームスタンを越えてネパール・中国の国境を通過しチベット高原へと道路が通じている。様々な物資がインド側からではなく、中国側からトラックに乗せられ中国の物資が大量に入ってきていると聴く。交易路,隊商路として長い世紀に渡って永々と続いてきた沿道の村々はその役目を終えてしまった。すでに今ではこの写真のような美しい辺境の村の景観、風情は残っていないのではないかと思う。

1980年当時この隊商路を旅するには、とにもかくにも自分の足で歩くしかなかった。ネパール第2の町ポカラを出発し、1週間歩くとムクチナートという仏教・ヒンドゥー教の聖地に到着するのだが、ツクチェ村はその途中にある村だ。ムクチナートから先のアッパームスタンには当時まだ鎖国政策をとっていたムスタン王国が存続していて外国人の入国は一切出来ず、特別パーミッションも発行してもらえなかった。その後、ムスタン王国はネパール王国の一部となり、厳しい条件付きながら外国人に開放されたのは、1991年10月になってのことだ。


この時、僕はテント(エスパーステント)を背負って旅を続けていたが、現地で実際に使う機会はあまり多くはなかった。
と言うのも、このルートに点在する村々にはかならずバッティ(食堂兼簡易宿泊施設)が何軒かあって、夕食をそこで食べるとそのまま宿泊が出来たからだった。宿泊施設はトレッカーの為というよりは、この交易路を行き来する隊商の馬子や商人らのための施設だったのだろう。
とにかくも、このあたりを歩く外国人トレッカーが温かいチャイや食事にありつけるのもこうして交易のキャラバン隊が運び込む細々とした物資があればこそだった。

この時、使用したザックは、写真にも写っているミレーのスーパードメゾンという大きなサイズのもので、最大容量は確か80Lだったと記憶している。ただし、最大限荷物を入れてしまうと頭が振れてしまい、とても歩き難いのでそこまで入れることは無かった。
曲げたベニヤ板を背中との間に入れ込んだウッドフレーム構造は、背中とザックの間に適度な隙間をつくり快適性を上げた、というのがこのザックのウリのひとつだったと記憶しているが、今の山岳用アタックザックの進んだテクノロジーからすると笑われてしまうだろうな。

この時代のキスリングやアタックザックを背負った経験を持つ老バックパッカーからすると、現代の山用ザックの使い勝手の良さや快適性、信頼性は素晴らしいのひと言に尽きる。これはザックだけにとどまらず、トレッキングシューズや登攀用具、下着からアウターウエア全般、雨具、炊事道具、GPS機器類に至るまで山装備の全てに渡って言えることだ。

山用品に限っては、使い慣れたものが良い、などということは無く、やはり、山用品は新しいものに限る。

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山の自然素材を使って作るアート(スギ) … Nature Art・Workshop2021/09/06

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「タネ・種子」に注目して作った標本風のサンプル作品:スギの球果と食痕
「森林インストラクターと山を歩き、山で収集したもので作品を作ってみよう」という“森のワークショップ”の一環で作成した、WS用の個人的な「習作」

スギ(杉、Cryptomeria japonica):ヒノキ科スギ亜科スギ属、日本原産の常緑針葉樹。スギ属 (Cryptomeria 属) は本種のみ。
以前はスギ科 Taxodiaceae に分類されていた。
漢字の「杉」は、日本ではスギのことを指すが、中国ではコウヨウザン(広葉杉:中国南部原産のヒノキ科コウヨウザン属の常緑針葉樹)のことを指す。

杉は古くは神聖な建築物の柱材、壁材などに使われてきた。時代が下がると町家などでも使用されるようになったが、一般的な民家では広葉樹材が使用されることが多かった。杉は割裂性がよく、裂いて材(角材や屋根葺き板材など)を作ることが出来たため、古くはその方法で加工されてきた。
また、杉の樹皮もとても有用な建材で、外壁材や屋根材(杉皮葺)として古くから利用されてきた。葉は乾燥して線香に用いられた。

ニホンリスの食痕:スギの球果を齧った痕(上の4個の球果)。球果の中に入っている小さな種子を食べる。
ニホンリス(ネズミ目リス科)はけっこう雑食で大食漢、アカマツの松ぼっくりやスギ、ヒノキの種子、クルミやドングリ、果実の他に、キノコや昆虫、小鳥の卵なども採食する。
植林地やアカマツの生えている真下の地面をよーく観察すると、ニホンリスやムササビ、モモンガ、ネズミなど野生小動物の食痕をたくさん見つけることが出来る。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出10 … 海外・WanderVogel2021/09/05

中国西安・大雁塔 1984年秋
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写真:1984年秋、西安、大慈恩寺・大雁塔。

シルクロードを旅する。
大雁塔は、652年に唐の高僧玄奘三蔵(三蔵法師)がインドから持ち帰った経典や仏像などを安置するために、高宗に申し出て大慈恩寺境内に建立した塔。
2014年に「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。
長安・西安は、シルクロードの出発点であり、到達点でもあった。

ちなみに、玄奘三蔵も中国からインドに入る際にカイバル峠を越えている。
玄奘が辿ったインドまでのルートを簡単に整理してみると、長安(西安)の大覚寺で学んだ玄奘は国禁を犯して密かに出国、河西回廊を経て高昌国に至る。そこから玄奘は西域の商人らに混じって天山南路を進み、途中から天山山脈のベテル峠を越えて天山北路へと渡る過酷なルートをたどり中央アジアの旅を続ける。
サマルカンド、タシケント、バーミアンを経て、ヒンドゥークシュ山脈を越えカイバル峠を下り、インド・ガンダーラ地方のタキシラに至った。
さらにそこから、ガンジス川に沿って東進しハルシャ・ヴァルダナ朝の都ナーランダー僧院にたどり着いたわけだ。帰路も往路同様に陸路で長安まで帰国している。帰路ではなんとタクラマカン砂漠の南側、シルクロードの中でももっとも過酷なルートである西域南道を経て帰国の途についているのだから、今から考えても想像を絶する命がけの大冒険だっただろう。
玄奘はインド国内でも精力的に動き回ったようで、カシミール地方からバータリプトラ(現パトナ)、ブッダガヤ、ベナレス、アジャンター、南インドと、広範囲にあちこちを巡っている。まさにバックパッカー界のカリスマと名付けたいくらいの坊さんだ。

memo:
・河西回廊:長安(西安)から蘭州、酒泉をへて敦煌へ至るルート
・天山南路(西域北道):敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルート
・天山北路:敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルート
・西域南道:敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁上のオアシスを渡り辿ってパミール高原に達するルート



1984年に慈恩寺を訪れた時、大雁塔は境内にポツンと建っている、という印象だった。有名な仏教遺跡のひとつだというのに、日本人を含め外国人観光客の姿はあまり見受けられなかった。

1980年代、中国国内での個人自由旅行は基本的にはNGで、そもそも日本の中国大使館では個人で入国VISAを申請することは出来なかったのだ。
そこで僕らは当時まだ中国に返還されていなかった香港に向かった。
当時、香港から陸路で中国国内に入る際にだけ国境イミグレーションで、香港市民や華僑(Overseas Chinese)と同じように日本人を含む外国人に対しても、1週間程度の短期間の入国VISAを発行してくれた。
その後、中国本土にある「公安局」で何回かに分けてVISAをエクステンドしていくと、最長3ヶ月間滞在することが出来た。大都市の公安局では10日間程度の延長しか認めてくれないケースが多かったが、地方都市に行けば(へき地であればあるほど)もう少し長い期間の延長申請を受け付けてもらうことが出来た。
VISAの延長手続きは延長日数にかかわらず、1回5元で、VISAの切れる前日か当日に申請に出向かないと追い返されることもあった。午前中朝早くに申請に行くのがキモだったのを覚えている。

とはいえ、有効な入国VISAさえ持っていれば、中国国内を自由に旅することが出来たかと言うとそういうわけではない。(これは華僑であっても同じだ)
外国人が旅をするにあたって、国内のエリア・都市は、開放都市、準開放都市、未開放都市の3つのジャンルで色分けされていた。
開放都市は自由に行動出来るのだが、あの広い中国大陸で北京を含むわずか30都市にとどまっていて、僕らが訪ねたい町や村はたいがい準開放都市か未開放都市のどちらかに分類されていた。

準開放都市を訪れるには「公安局外事課」で都市名をひとつひとつ申請し、パーミッションを取得する必要があった。入国時のパスポートスタンプとは別に許可証(Alien's Travel Permit 外人旅行証)を発行手数料1元を払って作ってもらい、そこに希望する準開放都市の名称を記載してもらうという手順が必要だった。

申請は1回につき10都市まで出来たが、チベット自治区は全土が完全未開放で、ウイグル自治区内での準開放都市はウルムチ、石河子(シーホーズー)、トルファン、カシュガルの4都市のみ、雲南省は昆明と大理のみ、青海省も2都市のみという厳しい状況だった。
チベット自治区に関しては、僕たちが中国に滞在している間に幸運にもラサ市のみ準開放都市となったため、速攻で公安局で追記してもらって、訪れることが出来たので、これは大変ラッキーだった。

未開放都市に到っては文字通り「立ち入ってはいけない町」なのであるが、ローカルバスなどで移動しているとどうしても未開放都市に泊らざるを得ないことが多々あった。こればかりはどうしょうもないのだが、けっこう緊張するものである。


当時、中国には2種類のお金(紙幣)が存在していた。
1つは一般に流通している「人民元」で、もう1つは外国人用の「兌換券」と呼ばれる紙幣だ。
外国人が銀行で両替出来るのはこの兌換券なのだが、それは一般のお店や食堂ではあまり使われないお金で、外国人用ホテルやレストラン、「友誼商店」と言う外国人専用の商店で使うことを前提としたお金なのである。つまり、中国を訪れる外国人旅行者はお金を持ったツアー客しかいない前提であったということだろう。
この外国人専用の友誼商店では、外国人用の土産品はもちろんのこと、中国国内では絶対に買うことが出来ない外国製のカラーテレビやたばこ、お酒、ブランドものなどを手に入れることができた。
一方で外国製品が欲しい中国のプチ富豪がいて、一方で人民元を入手したいバックパッカーがいるのだから、当然そこには「闇両替」のような仕組みが出来あがるのはある意味必然だっただろう。
でも、この話しはまた次の機会にしよう。

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古い山装備でもちゃんと現役で使えるのだ SVEA123R … 山歩き・WanderVogel2021/09/04

SVEA123R ストーブ
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写真:SVEA123R ガソリンストーブと40年前の年代物のプレヒート用着火材「META」

山用品に関しては、絶対に新しいものの方が良い。というのが真理だと思うのだが、このSVEA123はとても信頼性が高く、今でもちゃんと使えている。
購入した時期ははっきりと覚えてはいないが、1970年代の後半か1980年代に入ってすぐかぐらいだと思う。燃料はガソリンなのだが、煤の出にくいホワイトガソリンというのを使用する。

SVEA123の歴史は長く、古いタイプのものは燃料噴射口の掃除用のニードルピンが別体になっていたが、改良型では内蔵され格段に使い勝手が上がった。
着火にはプレヒート用着火材を中央ノズル下のタンクのくぼみに載せて火を付けてヘッドを温める方式なのだが、META1本の1/4程度の大きさでプレヒートは十分なのでこの点もかなり優秀と言える。

難点は火の調節があまり出来ないという点だ。弱火にすると煤が発生するので、全開か消すかに限られてしまう。この点はガスストーブには負けてしまう点だな。
ただ、半分雪に埋もれた状態でも、ちゃんとお湯を湧かせられると言う絶対の信頼性は他に変えがたいものがある。
とは言え、山用品は新しいものの方が良い。というのはやはり真理なのだ。現在の山用ストーブの使い勝手の良さから比べると、SVEA123はやはり霞んでしまう。


大学のクラブ(ワンゲル)活動では、主に灯油(ケロシン)を燃料としたストーブを使用していた。スベアと同じスエーデン製で、ラジウスと言うメーカーのものだった。移動時には分解してブリキの箱に収納して運ぶようになっていて、中に一緒に修理道具や何本かの掃除用ニードルピン、ウエス、着火材(META)などを仕舞っていた。
火力が低い割りにブリキの箱自体がけっこうかさ張るので、山合宿では持ち運びに苦労した経験がある。そのころのワンゲル部員が背負っていたザックはみな帆布製のキスリングであったためパッキングに難儀をした。うまい具合に配置しないとブリキの箱の角が背中に当たって痛い思いをすることになる。

ラジウス自体には燃料タンクに加圧のためのプレッシャーポンプが付いて、ノズル上のくぼみに火を付けたmetaを置くか、灯油を溜めて火を付け直接ヘッド部を温め、適当な頃合いを見計らって少し圧を掛ければケロシンが気化し燃焼したのだが、問題はこのポンプ軸の先に付いているパッキンだった。当時のものは質が悪く、すぐに乾燥して収縮しひび割れてしまい、うまい具合に圧がかからないことが多々あった。そのたびに分解してパッキンをツバで濡らし柔らかくして使用するというなんとも原始的な方法をとっていたのを思い出す。
おまけにノズルの穴がよく詰まるので、ニードルピンは必帯装備であった。(ニードルピンはよく曲がったりしたので、必ず予備を何本か持っていなければならなかった。)

それに比べ、このSVEA123はノズル部が溶接されていて分解出来ない構造で、プレッシャーポンプも付いていないため、ゴム製や樹脂製の部品がひとつも使われていないオールブラス製であるので、ほとんど(というか、まったく)メンテナンスしなくても不具合が発生しないという優れものだ。


海外での山行では、合宿でのラジウスで経験を積んだノウハウが十二分に活かされることになった。
1980年に初めて一人でヒマラヤを歩いた時、インドで買ったインド製ラジウスを持って2週間カリガンダキ沿いの古い交易路(チベットとインドを結ぶ交易路で、使役動物はヤクが主流だった。)を歩いた。麓の町ポカラでケロシンを買い、食料を調達し、テント(ダンロップ製の2人用のエスパーステントを持っていた)を背負っての山歩きだったが、今思い返してみると若いから体力があったのだろうなぁ、とこの歳になってしみじみと思う。
今、とてもじゃないが自分の個人装備でさえ自分で背負うのが厳しくて、ネパールではかならずポーターを一人雇うくらいなのだから、、、
やはり、歳には勝てないな。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出9 … 海外・WanderVogel2021/09/03

ペシャワールのチャイハナ1985年秋
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写真:1985年8月、ペシャワール旧市街のチャイハナの厨房。チャイは青いホーロー引きの小さなポットに入れられる。

パキスタンとインド、どちらにも同じようなチャイ屋はあるが醸し出す雰囲気はまったく別物だ。
インドではチャイは1杯ごとにガラスのグラスで出され、クイッと飲むとサッと出て行くという感じなのだが、パキスタンのチャイハナでは必ずと言っていいほど青いホーロー引きのポット(1potで4杯ほど飲める)で出され滞在時間もかなり長い。(1979年12月に撮ったチャイハナでの写真でもまったく同様の青いホーロー引きのポットが写っている。)
パキスタンのチャイハナはアルコールを出さないイギリスのパブのような雰囲気で、男達がチャイを何杯も飲みながら長時間談笑していた。チャイハナは完全に男の世界だ。ここでは女性の姿を見ることは皆無なのだ。

青いホーロー引きのポットの中身は、インドでよく飲まれる甘いミルクティーだけでなく、緑茶や紅茶など様々なバリエーションが楽しめる。
もちろん、緑茶を頼んでも砂糖たっぷりで出てくるので、甘くないお茶を飲みたい時には「エクチャイ、チニー、ネ(砂糖抜きのお茶を1杯)」という具合に店主にひと声掛けねばならなかった。

パキスタンの国の中でもペシャワールは独特なお茶文化を持っているような気がする。ペシャワールのチャイハナでは必ず大きな銅製のサモワールが設えられていて、店主の座っているその下には炭が焚かれたカマドが埋められていて、常にポットが温められている。
注文が入るたびに、サモワールからお湯をポットに移し、チャイや紅茶、緑茶の注文ごとに1ポットごと素早くお茶を入れていく。隣の鍋の中には温められたミルクが入っていて、よどみのない一連の所作によって次々とお茶が入れられていく。

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シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出8 … 海外・WanderVogel2021/09/02

ペシャワール1985年8月
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写真:1985年8月、フンザ・ギルギットからの帰路、ペシャワールに戻ってきて旧市街のバザールの一画にあるチャイハナでくつろぐ。
陽射しを遮る布が張られた店先で並べられたチャールポイに座り現地の人たちに混じってチャイを楽しんでいる。青いホーロー引きの小さなポットに入れられ運ばれてくるチャイ。


ペシャワールは古くはプルシャプラ(Purushapura)と呼ばれた古都。僕にとっては1979年以来5年ぶりの訪問となる懐かしい町だ。
当時の日記に、バザールの面白さはペシャワールのものがピカイチだ!、と書いてあるので、今まで見てきたバザールのなかでもキサ・カワニバザールは最高に雰囲気が良かったのだろう。バザール内ではアフガニスタン難民の姿も多く見られた。もともとペシャワールはアフガニスタン人と同じパシュトゥーン人の町なのだ。

この時は、ペシャワール旧市街のチョークヤードガルとカイバルバザールの中程にあるキサ・カワニ(ハワニ)バザールに面したホテルの2階に滞在していた。部屋にはL字型にベランダがついていて、そこから朝な夕なにバザールを上から眺め見ることが出来た。通りを挟んだ向かい側にモスクがあって、夜明け前から鳴り響くアザーンで目が覚める毎日だった。

ペシャワールの夏は非常に高温になることで知られる。最高気温は真夏の6月がもっとも高く、気温40 ℃を超える日が続き、10月に入ってやっと35 ℃を下回る、という感じで1年の半分は猛烈に暑い。パキスタンの大部分がモンスーン気候に含まれるなか、ペシャーワル以北はこれに含まれない。年間を通じて雨は少なく、乾燥した日が続く。ペシャワールの夏の暑さは、僕の経験でも南インドやタール砂漠、サハラ砂漠よりも数段暑く記憶に残っている。
日中汗をかいた身体を水シャワーで冷やそうと思っても、シャワーヘッドから出てくる「水」は「熱湯」で、夜になり屋上のタンクに貯められた水(熱湯)が冷えるのを待たないと浴びれないないほどだった。


AD1世紀頃、北西インドにクシャーン人が侵入、マウリア朝を滅ぼしプルシャプラを都とするクシャーナ朝を開くが、クシャーナ朝の本体はカイバル峠を越えた北側の中央アジアにあった。
それ以前よりガンダーラ地方(現ペシャワール盆地)にはバクトリアや匈奴、大月氏などがたびたび侵入して来ていた。アレキサンドロス帝国の流れを汲むギリシャ人の王国バクトリアの人々によりこの地にヘレニズム文化がもたらされ、この地域一帯にガンダーラ美術が花開くことになる。クシャーナ朝の時代、仏教美術・仏像制作が盛んに行なわれ、ガンダーラ仏教美術の一大ムーブメントが起こった。

クシャーナ朝はAD2世紀、大乗仏教の保護者であったカニシカ王の治世時に最盛期を迎え、長安とローマを結ぶシルクロード東西交易路をおさえてプルシャプラも大発展することになる。クシャーナ朝がAD3世紀にササン朝の第2代シャープール2世に破れ、本体である中央アジアの地を奪われ衰退するまでの200年間がそのまま、ガンダーラ地方のヘレニズム美術の最盛期と重なる。

唐代の入竺僧玄奘も、インドへ向かう旅(629年~645年の17年間)の途中、カイバル峠を越えこのガンダーラ・プルシャプラを通っていったはずだ。ただし、すでにその頃のガンダーラ一帯は、仏教が繁栄していたかつての面影はなく、一千箇所ほどあったという仏教寺院は、すっかり朽ち果てていたと伝えられる。玄奘は北インド各地を旅し仏跡を尋ね歩きながらナーランダー僧院を目指したが、そのころのインドは、グプタ朝からハルシャ・ヴァルダナ朝に代わっていて、仏教は保護されていたが新しくヒンドゥー教が台頭してきた時代だった。

クシャーナ朝期にガンダーラで制作された仏像等は、ギリシャ系ヘレニズム美術の強い影響下で作られていて、写実的な作風を特徴としている。一方、ガンダーラとほぼ同時期に、インドのマトゥラー(デリー南東に位置する都市で、カニシカ王の時代、副都とされた。)でも盛んに仏像が作られた。こちらは、ガンダーラ美術とは対照的にがっしりしたフォルムを持つ彫像などインド固有の伝統的デザインによる純インド的な作風が特徴だ。

ペシャワール博物館(Peshawar Museum)にはガンダーラ周辺で発掘された遺物や仏像、仏伝図の石板や装飾の数々が展示されている。
博物館は旧市街近くにあって、東西に長く延びるキサ・カワニバザールを西に進み、カイバルバザールを通り過ぎ、鉄道をオーバーパスした左側に位置している。1985年当時、入場料は一人1Rs(約15円)だった。

ペシャワール博物館は1907年のイギリス領インド帝国時代に、ヴィクトリア女王を記念する「ヴィクトリア ホール」として建設された由緒ある建物だ。
「仏陀苦行像・ 断食する仏陀像」というガンダーラ美術の至宝のひとつがこのペシャワール博物館に展示されている。完全な姿が残されているラホール博物館のもう一体のものと違い、失われている箇所も多いが、落ち窪んだ眼、助骨の上に浮かんだ血管まで透けて見える身体が、厳しい修行をやり抜いた仏陀の強い精神性を表していて目を奪われる。
1985年当時、博物館内には冷房設備などはもちろん無いので、見る側もけっこう修行のようになっていたのを思い出す。

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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録10 … 海外・WanderVogel2021/08/31

Besi Sahar
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番外編:Besi Saharの町の様子 2018年12月

標高2,600mのKoto村でうまくチャーター出来たオンボロジープで、標高750mのBesi Saharの町まで一気に下る。

Marcyangdi Khola沿いに延びる路は昔からの交易路であり、トレッキングのルートでもあった。30数年前、僕はここを何日もかけて歩いたことがあるが、荷を背負わされたロバとすれ違うのもやっとの狭い路だった。その道も今ではジープでなんとかかんとか走れるようになって、ベシサハールからマナン村まで1日で走れるそうだ。僕が歩いたときは、ポカラからマナンまで2週間かかったことを考えると隔世の感がある。
その路を拡幅し、車やバス、トラックが安全に通行出来るような道にするための工事が現在進められている。今はまだ建設中なので、かろうじて車が走れるといっても路面状態などはとてもひどい状態で、2時間も車に乗っていると身体はガタガタ、心底ヘトヘトな状態になる。

そんな状態で2日間、なんとかBesi Saharまで移動してきた。車を降りたところの茶屋でまずは本物のマサラティーとポテトサモサを2個食べる。
いや~ 美味しい!今までの食べ物はなんだったんだろう?と思えるほどだ。

なんだか急に都会が懐かしくなり、このままKathmanduへ一気に戻ってしまおうか、とも思ったが、身体は限界まで疲れているので、ここに一泊して予定通り明日の朝Kathmanduへ移動することにした。帰りの飛行機は明後日のお昼出発なので、ここまでくればもう安心だ。

町の食堂で昼食を取る。なんとチキンバーガー/wフレンチポテトなるメニューがあったので、思わずオーダーしてしまう。ブラックコーヒーはインスタントだったが、ハンバーガーは割とイケた。ハンバーグがパコラ風ではあったが、これはネパール風ということだな。

昼食後、ひとりBesi Saharの町の中を散策する。町のメインロードを端から端まで歩いてみる。
1時間も歩くと町の外に出てしまうので、町と言っても大きくはないが、このへんでは一番の都会と言うことになる。
ネパールやインドの地方都市の町の雰囲気満載で、若いころの貧乏バックパッカー時代の懐かしい感覚に包まれた。

(写真:ベシサハールの町のメインストリート。ネパール風あり、チベット風ありの楽しい町並み)
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ネパールヒマラヤ・Phuへの旅/記録 9 … 海外・WanderVogel2021/08/30

ネパールでの代表的な食事ダルバート・豪華版
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2018年12月
大きな岩の陰に隠れるように造られた主屋に出向き、かまどの脇に陣取り、チベッタンパンケーキとマサラティーの朝食を取るのだが、こんなこと言っては大変申し訳ないのであるが、このルート上で飲む「マサラティー」はどこで飲んでもクソ不味かったなぁ!
やはりチベット文化圏でマサラティーやダルバートなどインド・ネパール料理を頼むこと自体に無理があったのかもしれないが、ここまで極端にひどいのも珍しい。

今日は高度にして400m下り、行きに車を降りたkoto村までが行程なので、歩く距離が短い。朝はのんびりして、9時過ぎになって陽が射し込んで少し暖かくなって来てから出発する。
いままでの赤茶けた風景とは一転して、この一帯は緑が多い。ヒマラヤゴヨウとヒマラヤハリモミの樹林帯が広がっている。その中をテンポ良く鼻歌まじりに下って行く。谷幅も少し広がってきて川の流れも穏やかになってきた。水の色がミルクコーヒー色なのは変わらないけど、、
Naar kholaには昔ながらの簡単な木の橋も何本か残っている。どの木橋も一見しただけでかなり危なっかしいので、僕は頑丈そうな鉄製の吊り橋を選んで渡るようにしている。

昼過ぎにKoto村に無事に到着。行きの時にくぐったチベット風の門がゴールだ。
その脇にあるチェックポストで再びPermitのチェックを行なう。係官は総じてみな親切だった。

その後、Koto村にある一軒のレストラン&宿屋に入り、まずは昼食を食べることにする。スチームドベジタブルモモ(10個)とトマトスープをオーダーする。
モモは水餃子のような感触の蒸しギョウザで、付け合せのタレよりも持参した日本の醤油の方が合う。久々に料理らしい料理でした。完食です。

ここでまずやることは、往路でも一泊した大きな町「Besi Sahar」まで載せてくれるジープの手配をしなければならない。僕が食事をしている間にガイドのラムさんがジープ(乗合いまたはチャーター)の手配に走る。

ここまで来ればまずは安心だ。無事にジープをチャーターすることが出来、Besi Sahar途中のJagat村で一泊し、翌日Besi Saharでさらに一泊、そこからは乗合バスでカトマンズに戻ることが出来た。

トレッキング終了後、ガイドのラムさん、ポーターをしてくれたマダンくんと今回のコース上での食事の話をしたのだが、ラムさんたちも今回食べたバッティでのダルバートやツァンパはどこも「とっても激マズ!」だった、とのこと。
地元ネパール人にとっても「チベッタンの作るネパール料理」は激マズ!だったのか。今回はガイドたちにもいらぬ苦労をかけてすまなかったなぁ。

というわけで、トレッキング期間中の食事に関しては確かに最低の旅だったが、アップダウンを繰り返すたびに次々に現れる荒削りな赤土色のうねる大地、遠くには雪を頂くチベットレンジ、チベット族の村の持つ独特の景観・風情、高い標高と厳しい自然環境下での暮らしぶりなど、圧倒的な迫力に言葉を無くすほど感動した旅でもあった。
当初予想した以上に交通費や許可費用に出費がかさんでしまったが、無理して行って良かったなぁ。ほんと素晴らしい旅だった!
それと、病気にならずに良かった。

(写真:ネパールでの代表的な食事、ダルバート、豪華版)
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