シルクロードを放浪する老バックパッカーの想い出6/1 … 海外・WanderVogel2021/08/22

1979年12月 Kabul市内のモスクにて
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写真:1979年12月、ソビエト軍侵攻直前のカブール市内のモスク内でのスナップ。

1979年(昭和54年)冬、僕は革命で混乱していたイランから逃れ、陸路で国境を越えアフガニスタン側の検問所イスラムカラ(Islam Qala)からアフガニスタン国内へと入った。

この時期アフガニスタンの入国VISAを取得するのにけっこう難儀したのを覚えている。
ギリシア・アテネのアフガニスタン大使館とトルコ・イスタンブールのアフガニスタン領事館で入国VISA申請にトライするがダメで、イラン・テヘランのアフガニスタン大使館でやっと取得することが出来た。
イラン革命まっただ中のイラン国内では、ちょうどその時(1979年11月)テヘランにあるアメリカ大使館の占拠事件が起きた。アメリカ大使館員とCIA関係者らが人質になるというアメリカにとって前代未聞の汚点・大事件が発生し、イラン国内では反アメリカの機運が最高潮に達した。
そういう時期にもかかわらず、アフガニスタン入国VISA申請料の支払いはUS$キャッシュオンリーで、他の通貨での支払いは頑として受け付けてもらえなかったのを印象深く覚えている。申請料は正確に覚えていないが、他国のVISAに比べるとけっこう高額だった気がする。

その頃、中近東や南アジアを旅するバックパッカーは、ドルキャッシュ(当時1$=¥230〜¥235)はある程度は持っているのが大常識ではあったが、大半はAmexやBank of AmericaあるいはThomas Cookなどのドル建てのトラベラーズチェックで旅のお金を持っていた。ドルキャッシュはいざという時の為に出来るだけ使いたくなかった、というのが正直なところだった。(闇両替でさえTCを使ってしたくらいだった。)
クレジットカードやキャッシュカードなどは姿すら無かった時代の話だ。


アフガニスタン国内では、現地の人達に混じってオンボロなローカルバスに乗っての旅であったのだが、反政府ゲリラ・ムジャヒディンからの攻撃を避けるためトラックなどと一緒になり長いコンボイを組んで、前後に政府軍の装甲車を配しての移動であった。
木製フレームのバスは半分くらいの窓にガラスが無く、ベニヤ板で応急修理されていた。
バスの横っ腹にはキレイに並んだ機銃掃射の穴の跡が数列空いていて、やけに埃っぽい砂まみれ・土まみれの車内であったことを思い出す。
要衝と思われる場所では、道の両側にソ連製の旧式のT−34中戦車が並んでいた。


アフガニスタンの首都カブールの支配者は古くは、サマーン朝→ガズナ朝→ゴール朝→ホラズムシャー朝と遷移していくが、カブール自体は「村」の域を出ず都市化されてはいなかった。その後のチンギス・ハーンからティムールへと続くモンゴルの時代でも大きな変化はなかったが、16世紀前半にムガール帝国創始者のバーブルがカブールを一時期「都」としてからは、この町の戦略的重要性は高まっていく。

近代に入り(ロシアの南下政策に対抗するため)一時イギリス軍の占領下に置かれるが、1919年アフガニスタン王国として独立。1933年以降はザーヒル・シャーが国王として統治したが、アフガニスタンはもともと部族社会で成り立っていて、地方の権力はそこの部族の長が依然握っていた。
そのような中、ザーヒル・シャーの従兄弟のダーウードはザーヒル・シャーが病気療養のため国外に出た隙を狙って革命を起こし、アフガニスタン共和国を成立させてしまった。しかし、1978年に今度はダーウード自身が暗殺されてしまう。代わって共産主義政党のアフガニスタン人民民主党が政権を掌握するのだが、政党内の派閥対立により、1979年夏にはアフガン全土で反政府ゲリラ(ムジャヒディン)が蜂起、反乱や衝突が多発、ほぼ全土が抵抗組織の支配下に落ちたため、人民民主党政権はソビエト連邦に軍事介入を要請するに至った。

僕がアフガニスタン国内に入ったのがちょうどこの時期だった。

1979年12月初め、ソビエト連邦(USSR、ソビエトユニオン、ブレジネフ時代)によるアフガニスタン軍事介入・侵攻が始まり、またたく間に北部地方は掌握されていった。12月23日には首都カブールにソ連軍(KGB)が侵攻しそのまま占領、カブールに突入したKGB特殊部隊はこともあろうに軍事介入を要請した張本人である人民民主党政権の現大統領を襲撃し暗殺、新たな大統領とすげ替え親ソ連の共産主義政権を樹立させてしまう。
アフガニスタンは地理的にソ連にとって要衝の地であり、首都カブールを押えることは南アジアの安全保障上でも大きな意味があった。ソ連軍は1988年にアフガンから撤退するまでの10年間そのままカブールに駐留することとなる。

ソ連がアフガニスタン軍事介入に固執したわけはもうひとつある。同時期に隣接するイランがイラン革命によってパフラヴィー王制(イラン最後の皇帝)が倒され、シーア派のイスラム指導者ホメイニ氏を中心としたイスラム原理主義の新政府が樹立されたことに危機感を持った。もし同じようにアフガニスタン国内でもイスラム原理主義の革命が起これば、宗教や民族問題で国内に火種を抱えていたソビエト連邦国内にも飛び火する危険性が大きかったからだ。その後に勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのがソ連であったこともそれを物語っている。


そんな時期に僕はひとりアフガンを旅していたのだが、幸運だったのはソ連軍によるカブール陥落直前に首都を離れ、ジャララバードを経てカイバル峠を無事に越えられたことだろう。
そして、最大の不幸は、もう1年早く休学して出発していたならば、アフガニスタンの北部地域に位置するバンディ・アミールやマザリシャリフ、バーミアンといった夢にまで見ていた湖を都を遺跡を歩き回れたのになぁ、、と後悔してもしきれない気持ちを今でも持っている。


- - 6/2へ つづく - -

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