金沢八景・六浦と野島/夏島/烏帽子島 … 金沢八景の歴史・WanderVogel2014/03/03

金沢八景・野島夕照
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家の近くを流れる侍従川、国道16号に架かる夕照橋から7〜800mほど下流に歩くと平潟湾にでます。
写真の絵でいうとちょうど手前の屋根船が浮いているあたりでしょうか。正面には絵のように野島が浮かんでいます。

この野島、江戸時代までは六浦と陸続きの島だったようで、絵のような茅葺き屋根の百軒の漁師村があったと伝えられています。
八景のひとつである「野島夕照」はこの漁村の夕暮れの美しさを詠ったものです。

写真の野島夕照の絵には左から野島、その奥に夏島、右に烏帽子島という具合に並んで3つの島が描かれています。

現在、野島には伊藤博文の茅葺き屋根の別邸が保存公開展示されていますが、伊藤博文が実際に井上毅(こわし)らと明治憲法起草をしたのは夏島にあったもう一つの伊藤公の別邸とされています。
(金沢八景は明治の始めころには、湘南地域(藤沢や大磯)や小田原などとともに上流階級のリゾート地、別荘地として人気が高かったところです。)

その後、大正7年には夏島から烏帽子島周辺にかけて大規模に埋め立てられ、そこに海軍航空隊の飛行場が建設されました。
その時にこの烏帽子島も一緒に切り崩されてしまったようです。

戦後になって海軍追浜航空隊の飛行場は取り壊され、日産自動車のテストサーキットが造られましたが、野島には大規模な海軍地下壕や掩体壕が今もそのまま残されています。
また、夏島にも国指定史跡である「夏島貝塚」の下に何層にもなる海軍地下壕が築かれ、こちらもそのままのかたちで今も残されています。
夏島の掩体壕は海軍追浜航空隊の「零戦」やロケット戦闘機「秋水/コメート」の格納のために設営されたのではないかと伝えられています。


野島の内側にあたる平潟湾一帯は昔(鎌倉時代)から浅瀬で、その後 塩田として開発されたところだそうですが、潮干狩り(漁師の副業)の浜としても有名だったようで浮世絵にも描かれています。
潮干狩りと海水浴に関しては今でも野島では盛んです。
私の親ももちろん私も、そして姪は今でもここで(アサリ)潮干狩りと海水浴をしていますから。

六浦(むつら)は鎌倉時代から海運に欠かせない良港として非常に重要な地でした。

鎌倉幕府の置かれた鎌倉まで、ここ六浦で陸揚げされた船荷が鎌倉七口(鎌倉古道)のひとつ「朝比奈の切通し」を通って運ばれていました。

六浦(野島・平潟湾)の浜から横浜方面へ向かう海岸線はもともとは垂直に海に落ち込む切り立った崖が続いていて、小柴から本牧岬(現三渓園のあるところ)を越して、神奈川の港までの間はまったく船を付けられるところが無かったようです。

横浜や金沢八景の名勝を描いた浮世絵や版画、古写真などを見ると、本牧岬から連続して延々と続く切り立った高い崖とそこに打ち付ける荒波、そして六浦の白砂青松の静かな砂浜という、いかにも日本らしい美しい風景が広がっていたのがわかります。

1930年代初頭(昭和5年から昭和9年ぐらい)の京浜湘南電鉄(現京浜急行)が発行した行楽ポスターを見ると、そのころには金沢八景の海岸周辺は(潮干狩りと)海水浴場として庶民の間に浸透していったようです。昭和の始め~中ころまでは、少なくともその美しい海岸線の風景はちゃんと残っていたのでしょう。

以前のblog: http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2012/10/28/


私が週末にボランティアをしている三渓園には、かつて本牧岬と言われていた断崖上に海を見下ろすように原邸のゲストハウスである「松風閣」が建っていました。
(現在、コンクリートで出来た見晴し台のような「松風閣」という名前の建物がありますが、それとはまったく違うものです、)

旧「松風閣」は明治20年頃に造られた煉瓦造り2階建ての洒落た建物で、命名は伊藤博文だそうです。原邸を訪れた賓客をもてなす重要な建物でしたが、関東大震災により倒壊してしまいました。現在その場所にはレンガの建物の一部がそのまま廃墟として残されています。

原三渓がその本牧岬の断崖の上に建物を造りたかった理由は、その断崖の切り立った崖越しに見る富士山の姿に惹かれたから、というのを聞いたことがあります。

今ではその切り立った海岸線はことごとく埋め立てられ、高度成長期に建設されたコンビナート基地や工場群で埋め尽くされてしまい、今ではもう見る影も無く かつての景観を想像することさえ出来ません。

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