ゲルギエフのイゴール公(マリインスキー劇場) 1998 … OPERA CLASSICS MUSIC2012/03/24

Prince Igor Gergiev 1998
- -
St Petersburg Mariinsky Theatre で1998年に行なわれた Valery Gergiev 指揮で The Kirov Opera CompanyとThe Kirov Balletによる「Prince Igor」(Borodin) 。

YouTubeにUPされているのを観ましたが、素晴らしかった。
マリインスキー劇場のネオ・ビザンチン様式で造られたエキゾチックな内外観デザイン、同劇場の芸術監督/総裁のゲルギエフ指揮とキーロフ・オペラ、キーロフ・バレエの踊り。
僕にはオペラの専門的なことはよくわかりませんが、メインホールの豪華できらびやかな室内装飾、素晴らしい舞台装置、演奏と踊りには一気に引きつけられました。1時間30分はそれこそあっという間でした。

マリインスキー劇場は1859年に現在の形(ネオ・ビザンチン様式)で設計され造られたもので、劇場の名前もマリインスキー → レニングラード → キーロフ → マリインスキーと幾度も名前が変わってきた歴史を持っています。

現在の劇場に隣接して造る予定の新館の国際設計コンペで、フランス人(奇抜なデザインで評判の)ドミニク・ペローが2003年に設計を勝ち取りましたが、工事着工後の契約解除、再コンペと、こちらも目まぐるしく替わっています。さて、今はいったいどうなってるのでしょう?

世界遺産にも指定されているエルミタージュ美術館などの建ち並ぶ歴史地区に建つマリインスキー劇場ですが、隣接してドミニク・ペローはどうかなあ、と当時もやはり賛否両論でしたので、良かったのかも…。

ドミニク・ペローの設計した建物は世界各地にあり、奇抜でダイナミックなランドスケープ的デザインで売れっ子の建築家です。
もちろん作品は日本にもありますし、一昨年 東京オペラシティ行なわれたドミニク・ペローのエキシビションなどは、日本でもファンの多いペローですのでけっこう盛況でした。

と、それはさておき、このビデオの冒頭の部分でマリインスキー劇場の外観やラウンジ、メインホールなどが観客の姿と共に映し出されていますが、それらを見ると無性にサンクトペテルブルク(旧レニングラード) に行って観てみたくなりました。

・・・不定期に つづく

ラジャスターン・タール砂漠の旅 1991 … WanderVogel2012/03/26

ラジャスターン 砂漠のチャトリ
- -
インドの西方、パキスタンに面してラジャスターン州があります。
ラジャスターンのほとんどを占めているのが広大な「タール砂漠」です

写真(1991年)はタール砂漠の最奥部、ビーカーネールという街からジャイサルメールヘの移動中の陽炎立つ砂漠の光景です。
建物のように見える構造物は、この地方独特のもので「チャトリ」と呼ばれています。 砂漠の中に突然現れるこの「チャトリ」はイスラム教徒(あるいはバラモン)の廟だと言われています。

ビーカーネールもジャイサルメールも、藩王の城砦を中心としたムガール時代から続く歴史あるマハラジャの都です。
ラジャスターンの砂漠地帯一帯には、その地方を治めた藩王マハラジャたちの造った独特の建築様式を持つ豪華な宮殿や城砦都市がそのままのかたちでたくさん残っています。

その街並や王宮・城砦、(ジャイナ教)寺院、そして砂漠の光景などを見てみたくて、1991年冬に一ヶ月ほどかけて何度目かのインドの旅です。


この辺りはどこまで行っても砂漠・土漠地帯です。バックパッカーの交通機関である公共バスは網羅されておらず、まったく不便な地域です。
おまけに追い剥ぎや山賊が出没しますし、オオカミもいます。

車(TATA製のセダン)と、運転手(若いインド人ドライバー)を1ヶ月間まるまる雇って、デリーから砂漠地帯をぐるっと回ってマハラジャの造った都市やその間の町を小さな車で巡ってきました。
その間はずっと、マハラジャの旧王宮殿や離宮などの宿泊施設に泊まりながらのかなり贅沢な旅でした。

今にして思えば、映画「インディーズ・ジョーンズ 魔宮の伝説」に出てくる「パンコット宮殿」に宿泊しているような感じでしょうか。
もちろん宮殿建築は本物そのものですから、映画よりも古ぼけていて歴史の重みを感じますし、壁にいくつも掛かっている虎やガゼルやサイの頭の剥製はかなり薄気味悪いものがありました。

砂漠を縦断して1ヶ月、最終目的地はガンジーの産まれた街 アーマダバードでした。(アーマダバードと言えばガンジーの他に有名なのは、ルイス・カーンであり、ル・コルビジェでしょう。もちろん見てきました)


*チャトリ(chatri)というのは、4本の柱の上に屋根が乗っただけの(壁のない)東屋のような建築物を指します。 イスラムの建築様式では宮殿やモスクなどに付随して造られることが多いのですが、単独で砂漠などに建てられているチャトリ(群)はだいたいが「墓」「霊廟」です。

・・・不定期に つづく

モロッコ イスラーム建築とサハラ砂漠 1985 … WanderVogel2012/03/28

サハラ砂漠とムスリム建築
- -
1985年、北アフリカ・モロッコに点在するイスラーム建築とサハラ砂漠を見るためにパリからマラケシュまでやってきました。

モロッコ(マグレブ)のイスラーム建築については、魅力的で奥深く多種多様な文化、歴史、気候風土を背景としていることもあり、とても一言では言い表せませんので別の機会にまわし、もうひとつのモロッコの魅力「サハラ砂漠」への道のりについて書いてみましょう。

ヨーロッパ(スペイン)とアフリカ(モロッコ)の間の狭いジブラルタル海峡を渡り、マラケシュからアトラス山脈を越えワルザザーテという町まで来ると、目に入る周りの景色は砂漠(土漠)の土色一色になってきます。
そこはベルベル人のふるさとです。


土漠の中を公共の乗合バスで移動していますと、時折写真のような土の城壁に囲まれた村がいくつも目に入ってくるようになってきます。
ちょうど放牧を終えたヤギたちが、村に戻っていくところに行き会いました。遠くの方に白く雪を頂いた高い壁のような山脈は、サハラ側から見るアトラス山脈です。

ワルザザーテからさらに東に走り、ティネリールという町を経由して、アルジェリア国境近くまで車で走ると、メルズーガという砂漠の入り口の村に着きます。
アトラス山脈を越えてこのメルズーガという村あたりまでは、砂漠というよりは(写真のような)土漠の景色が延々に続いています。
シルクロードの土漠との決定的な違いは植生にあります。ここで目立つのはナツメヤシの木で、それがいかにも“サハラ”という印象を強くします。

メルズーガ奥のサハラ砂漠はシルクロードや中近東の“土漠”と違い、本当にサラサラの微細な砂で出来ています。
そこにはカナート(カレーズ)などによる灌漑農法の可能性などまったくない、絶望的なほどの「無の世界」が広がっています。

黄色一色の砂漠を歩くと、くるぶしまで簡単にもぐってしまいます。
ひとたび砂漠の上を熱風が吹き荒れると、髪の毛の1本1本の中にまで細かい砂の粒子が入り込んでしまうほどです。


北アフリカ(マグレブ)のイスラム建築を理解するには、この“サハラ”を体験しなければ解らないのかもしれない、とその時感じました。

・・・不定期に つづく

ネパール カトマンドゥの水汲み場 2011 … WanderVogel2012/03/29

カトマンドゥの水汲み場
- -
2011年、4度目?の山歩きのBCとしてのカトマンドゥ滞在です。
http://blog.goo.ne.jp/hd2s-ngo

写真はカトマンドゥの街なかに点在している、階段状に深く掘り込まれた水汲み場、洗濯場です。
街の真ん中、交通量の多い表通りから1本入った路地などに、突如こういった窪んだ水場がいくつも存在するというのもけっこう不思議な感じがします。

インドでは「クンド」あるいは「クンド・ワピ」という言い方をしますが、ネパールでは「ドゥンゲダラ」と言うようです。

これは一種の水井戸で水汲み場でもありますが、宗教的な意味合いも強く、沐浴場を兼ねていたりもします。写真をよく見ると一番低いテラス部分にリンガが三基見えます。吐水口の壁側にはヒンドゥの神様を祭った石造りの祠状のものも見ることが出来ます。
ヒンドゥ教徒にとって、沐浴は重要な宗教行事/習慣のひとつで、神聖なものなのです。

カトマンドゥでは今でもかなり頻繁に停電と断水がありますので、こういった水汲み場は実生活の面でも日々活用され続けています。

ただ、日本人の感覚からすれば共同の水汲み場なのですから、もう少し清潔さがあった方が良いのでは?と余計なことを思ってしまいます。

日本の田舎で時々見られる昔から利用されている村の共同水汲み場などと比べると、衛生面でかなりの開きがあるように思います。
日本のそれが「清水」なら、ネパールのそれはどうみても「濁り水」に見えてしまうのは自然環境のせい? それとも国民性によるもの?

・・・不定期に つづく

イラン・ペルシャ ペルセポリスの都跡 1984 … WanderVogel2012/03/31

ペルセポリス1984
- -
2度目のイラン(ペルシャ)行きは1984年でした。

その頃のイランはイラクとの間の戦争が長期化していて、特に個人で旅をするには観光どころではなかった時期でした。
(テヘランやイスファハーンのホテルでは半地下の防空壕のような部屋でしたし、屋上には高射機関砲が据え付けられ夜通し威嚇射撃をし、地対空ミサイルまでが夜空を睨んでいましたから…)

シラーズという美しい町の近くに、紀元前アカイメネス朝ペルシャ帝国の都跡ペルセポリスが破壊された姿そのままに残されています。
ダレイオス1世からクセルクセス1世にかけて壮大な規模で建設されたこの宮殿は、紀元前331年に古代マケドニア王国のアレクサンダー大王(ペルシャ読みではイスカンダール)によって徹底的に破壊され、そのまま長い年月放置されていたものです。
破壊されたのも紀元前のことですから、何と二千数百年間もこのような姿のままここに残っていたことになります。

写真は百柱殿跡からアパダナ方向を写したものです。後ろに林立する高い石柱はクセルクセス1世のよって建てられたアパダナの柱の一部です。
それだけを見てもこの宮殿の規模の壮大さが解りますが、このアパダナは高さ10m以上に積み上げられた大基壇の上に建っているのです。

腰掛けているのは百柱殿を支える柱の柱脚で、その釣り鐘型をしたベースデザインは美しく流麗で優雅です。
後方に転がっている柱身は、ギリシャのイオニア式に似ていますが、フルーティングの数がそれより多くいっそう繊細な細工が見て取れます。

ペルセポリスの建築デザインで最も特徴的なのが柱頭部分です。
柱頭は背中合わせの2頭の動物、渦巻き文様、花冠状デザインの3つのパーツの組み合わせで構成されていて、転がっている瓦礫のような石塊と化した姿となっても、十分にオリジナリティー溢れるそのデザイン性を感じ取ることが出来ます。

ここに立って繁栄の頂点にあった往時に思いを巡らせ、どのような宮殿が建っていたのであろうか、古代バビロニアにあったという空中庭園がここにもあったのだろうか、などと想像するのは実に楽しいものです。


ペルセポリス近くの巨大な岩稜の岩壁にはダレイオス1世の墓(ナクシュ・イ・ルスタム)が穿たれています。
その前には巨大な石造りの拝火教(ゾロアスター教)の祭壇がそのまま残っていたのを思い出します。

・・・不定期に つづく

アクセスカウンター