アンナプルナ山系一周トレッキング 1984 … WanderVogel2012/03/08

Throng Phedi 1984
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ネパールのアンナプルナ山系をトレッキングしたときの、最高地点に登る前日に宿泊した トロン フェディのBASE CAMP(ただ1件の宿)の写真。

写真右に石を積んだだけの粗末な壁が写っていますが、避難小屋のようなこれが、その時のベースキャンプ(バッティ)です。
ここまで来るまでに、危険なガレ場をトラバースしたり氷河に削り取られたサイド モレーンを直登したりと、かなり危なっかしい道を歩いて(登って?)来ました。
ここですでに標高4,500m程度ありますが、この先、正面の谷を抜けて鞍部に突き上げるとThrongPass(トロンパス)という5,415mの峠に出ます。

ポカラ(標高900m)という町からここまで、山道を歩いて歩いて2週間もかかりました。
(その頃は今と違って、車の通れるような道路も造られていませんでしたので、すべて自分の足で歩くことになります。)
ここでちょうどトレッキングの行程的には半分の地点です。ですから、峠を超えてまた2週間歩き続けないと出発点のポカラには戻れません。

まあ、チベット人の住む村々に泊まりながらのんびり歩いているということもあって全行程1ヶ月などという長い日数がかかってしまいました。

この地点(4,500m)では、夏でも夜は氷点下になる過酷な気候です。
(反対に、昼間は半袖でも平気なんですけどね)
空気も薄いですし、紫外線は半端な量ではありません。
何より食生活がひどい!!

と、そんな思いをしてでも、やはり行きたい場所なのです。
チベット人の住む村々の生活や住居デザインなど建築的な興味ももちろんありますが、何といっても魅力は8,000m級の山々にあります。
アンナプルナ主峰(8,091m)を始め、ガンガプルナ(7,454m)やニルギリ(6,940m)、マナスル(8,163m)、ダウラギリ(8,167m)という憧れの山々を間近に見ることが出来ます。

自分が標高5,000m近くに立っていても、目の前にそこからさらに3,000mも標高差のある8,000m級の山が聳え立っている景色はまさに圧巻!
そこから上はまさに「神の領域」と思われる光景が広がっています。


*昨年(2011年)の秋に何度目かのネパールで、ランタン・ヒマールを2週間ほどトレッキングしてきましたが、やはり歳と体力の衰えを感じてしまいました。
やっぱり若いうちにやっておかなければいけないことってあるんだなぁ、と しみじみ思ってしまいました。
Nepal Trekking 2011: http://blog.goo.ne.jp/hd2s-ngo

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バルチスタン(Baluchistan) クエッタからザヒダーンへ 1984 … WanderVogel2012/03/09

Baluchistan bus
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パキスタンのクエッタという町は、アフガニスタン第2の都市カンダハルに通じる歴史深い古くからの交通の要衝です。

アジア(パキスタン)側からヨーロッパ(イラン)側に、陸路で抜ける場合(反対方向でも同じですが)、ルートが2つあります。

1つはペシャワールから有名なカイバル峠を超えて、カブール、カンダハル、ヘラートとアフガニスタンを横断して、イランのマシュハドに抜ける「アジアハイウェー1号線」
もう1つはクエッタから直接イラン側のザヒダーンへ抜ける「アジアハイウェー2号線」です。
“ハイウェー”といってもカラコルムと同様に、土漠の上に造られた1本の簡易舗装の道路のことなのですが…

どちらの道も私は通ったことがありますが(上は1979年、下は1984年)、1号線の方はタリバン(ムジャヒディーン)の勢力下にある地域もありますので、今となっては幹線道路としては機能していないのでしょうね。

「アジアハイウェー2号線」クエッタから土漠を横断してイラン国境に向かって走るバスというのが、上の写真のように車体全体を飾り立てた満艦飾のド派手な乗合バスです。

こんなボロい形をしたバスですが、結構頑丈で熱風の吹く土漠の中を結構なスピードで、車体を揺らしながら爆走していく心強い乗り物です。

イスラム国ですから、当然 お祈りの時間になるとバスが停まって、乗客みんなが降りてそれぞれメッカに向かってお祈りをし、また乗り込み走り出すということを1日に5回繰り返します。

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カンチェンジュンガ(Kangchenjunga)を眺めにダージリンへ 1984 … WanderVogel2012/03/11

ダージリン トイトレイン
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カンチェンジュンガ(Kangchenjunga) はシッキム・ヒマラヤ山群の主峰で、ネパールの東の端、インドとの国境上にあります。

エベレスト、K2に次ぐ世界第3位の高さを持つ山(8,586m)です。
カンチェンジュンガという山はいくつもの峰からなる山群で、独立峰の山の姿と違って非常に女性的なフォルムが特徴の山です。
同じく女性的な山の姿を見せるアンナプルナ山群同様に、僕の好きな山のひとつです。

この山が一番きれいによく見える場所がインドのダージリン(Darjeeling)という町です。

ダージリン(Darjeeling)は、北にシッキム、西にネパール、東をブータンにそれぞれ囲まれた山の頂上付近に造られた町で、避暑地としても「紅茶」の産地としても有名な町です。

一年中霧が発生しやすい地域性と寒暖の差が激しい山間部特有の気候とが紅茶の生育にはすごく適していたようで、そこにイギリス人も目を付けたのでしょう。
町から下を見下ろすと、斜面一面に広大なティープランテーションがいくつも広がっています。この光景もけっこう圧巻です!

ここに行くには、カルカッタから500kmほど北にあるシリグリ(当時は)という町から、写真のような可愛い蒸気機関車(トイ トレイン)に乗り スイッチバックを繰り返しながら、標高差2,000mを1日かけて えっちらおっちら急な道を村々の家の軒先をかすめながら延々と登っていきます。

住んでいる人たちはベンガル人よりもネパール人やチベット人が多く、牧畜も盛んでおいしいチーズがあったことを覚えています。

この先シッキム王国の玄関口、ガントク(Gantok)までは行くことが出来ましたが、そこから北へは Off-limits でした。

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「第1回神奈川県ヘリテージマネージャー大会」… 神奈川県建築士会主催2012/03/11

横浜みなとみらい
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今日は横浜のみなとみらいで開かれた「第1回神奈川県ヘリテージマネージャー大会」に参加してきました。

地域遺産プロデューサーの米山氏の基調講演とヘリテージマネージャー講座修了者により活動報告に続き、西 和夫先生と米山氏をコメンテーターとするパネルディスカッションが行なわれるなど、結構盛りだくさんの大会になりました。

あらためて自分の住んでいる横浜や横須賀、浦賀、湘南地区などを見直してみると、歴史的な建物や事物があちこちに数多く残っていることに驚きました。
同時に、今現在それらが少しずつ失われている現状にも気づかされました。時には、こうした市民目線に立ったフィールドワークも聴きにいかないといけませんね。

特に浦賀は住んでいるところからも近いので、関心があったのですがフィールドワークの報告を聞くと、あらためて歴史上のことが身近に感じられるような気がします。
言われてみれば、黒船の時代から先の大戦まで、浦賀は日本の歴史にずっと関係して来た土地柄だったのですからね。
このあたりで、黒船と言えば「下田」を思い起こしますし、海軍の歴史と言えば「猿島・横須賀」という感じがしていて、「浦賀」には逆に新鮮な発見がありました。

このような、「重要文化財」とまではいかないような市井の歴史的建造物や文化(建築遺産や土木遺産あるいは人間の手で育まれてきた自然など)については今一度、価値の見直しや保護の大切さ、後世に伝える努力などをしっかりしていかなければ、簡単に失われてしまうものなのだということを再認識し合いました。
肩肘張らない話も聴けて、とても有意義な「大会」となりました。

外へ出ると、雨続きだった空が少し明るくなっていて、運河沿いの桜のつぼみもまだ固いながらも、ほんのり淡桜色に色づき始めていました。


インド亜大陸最南端コモリン岬へ・トリバンドラム 1984 … WanderVogel2012/03/13

南インド トリバンドラムへ
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インド亜大陸最南端、タミル・ナドウ州の突端 (岬)ケープ コモリンへ。

カルカッタ ハウラー駅から、ブバネシュワール、マドラス、マドゥライ、と遺跡やヒンドゥ寺院などをフィールドワークしながら、汽車の終着駅であるケララ州トリバンドラムに到着しました。
この間、何泊もしながらあちこち路線から外れて見て回っていたので、たどり着くまでけっこう日数がかかってしまいました。

インド国内での旅は、バックパッカーの場合 だいたいこのような客車に乗っての移動になります。これでも2等車だったと思いますが、窓には外からの侵入を防ぐための鉄柵がハマっています。
(カースト制度が厳格だから?)
その頃は、確か3等車まであったように記憶しています。

駅に汽車が着くと、物売り(多くは食べ物売りです)が殺到してきて、すぐに窓の外はこのような状態になります。

(その頃の)インド国内の汽車移動では、4~5時間の遅れは「遅れ」に入りませんで、12時間遅れくらいで「おっ、遅れているね」という感じになります。

何か特別な原因があって遅れる訳ではなく、何となく遅れるのです。

その間は駅の待合室で待つか、ホームの片隅でボーッとするかで時間を使うしかありませんが、さすがに24時間も遅れると駅近くのホテルに泊まり、汽車が動き出しそうな頃に駅員に迎えに来てもらうという段取りを取ります。

遅れに関しては、駅員も乗客もあまり気にしていないようでした。
まったく鷹揚なものです。

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マドゥライ ミーナークシー寺院のゴプラの上から 1984 … WanderVogel2012/03/13

マドゥライ ミーナークシー寺院
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たまには1枚くらい建築物の写真を載せておかないと、ただ放浪して来ただけのように思われても心外なので…。

インド南部タミル・ナードゥ州マドゥライに建つミーナークシー寺院、正式名はミーナークシー・スンダレーシュワラ寺院。
17世紀に建てられた南インドの典型的な様式を持つヒンドゥ寺院です。

インド国内には大部分のヒンドゥ教徒の他に、ジャイナ教徒やチベット仏教徒、イスラム教徒など多くの宗教が入り交じっています。
ヒンドゥ教をその寺院様式で分けると、南インドのドラヴィダ様式とそれ以外、に分けられると言っても過言ではないほど、その様式に違いがはっきり表れます。

これは、タミル・ナードウ州やケララ州など南インドがイスラムの侵略を受けなかったからに他なりません。
純粋なヒンドゥ文化をずっと受け継いできたと言えます。

その奇抜な塑像群と色彩はオリジナリティーに溢れ、外部の華やかさと内部の静謐さの対比も見事です。
と、書いてはみたが、外壁を覆う塑像群とその色彩感覚は、「インドの日光東照宮」という感じで猛烈に暑苦しい。

何世代にも渡って増築を繰り返して来たので平面レイアウトは複雑で、寺院の中を歩いているとどこを歩いているかもまったく解らなくなるほどの迷路です。

寺院の東西南北をはじめ全部で12基の塔(ゴプラ)が、全身にカラフルな塑像をまとってニョキニョキ建ち上がっている姿もかなり異様です。

中でも一番高いゴプラ(48m)に登ってみました。
内部の狭い階段をどんどん上って行くと、手摺も何もないヴォールト状の瓦屋根の上にポンと出ます。
強烈な日光にジリジリと焼かれた屋根の瓦は、フライパンの上のように熱々です。

下を見下ろすと寺院の全景を知ることが出来ます。広大な建物群はほとんどが屋根に覆われひとつに見えますが、レイアウト上はいくつもの建物(施設)の集合体です。
屋根上の所々に明かり取りの天窓状の突起が見えています。
(レイアウトとその手法はかなりモダンで魅力的です。現代建築のプランニングにも通じるのでは、と思えるほどです。)

写真中央下の広い階段部分は大きな沐浴場です。その左側に僕の足が写っています。(寺院内は靴は禁止ですので、当然裸足です)

今はこのゴプラの屋根の上に登ることは出来なくなっているそうです。

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ウルムチ・タクラマカン砂漠とロバ車と遺跡 … WanderVogel2012/03/16

ウルムチ ドンキータクシー
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ウルムチの土造りの旅社(Hotel)の中庭には、涼しげな泉水と大きな葡萄棚があり、重なり合う葡萄の葉が風の抜ける木陰をつくっていました。
その光景は、何十年経っても目に焼き付いています。

「イーゴリ公」の「ポロヴィッツ人の踊りと合唱」の中で歌われる詞のように、
「風の翼に乗って飛んでゆけ
 懐かしい歌よ、故郷へ
 ・・・・・・
 甘い葡萄が実るふるさとへ ・・・」
そこはまさに“オアシス”そのものです。

ウルムチの町なかからシルクロードの隊商が行き来していた時代の遺跡までは、ロバに荷車を括り付けた地元民の足「ドンキータクシー」で向かうことになります。
御者はウイグル人の少年です。
砂塵舞う埃っぽい土路をロバ車は懸命に走ります。

写真は地元民の家族用ロバ車も混じっていますが、ドンキータクシーの“駐ロバ場”です。

だいたいこの「ロバ車」は、女/子供、年寄りの乗り物で、男はさっそうと馬にまたがって走って行きます。
時代は移っても彼らはやはり砂漠(土漠?)の民なのです。

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イラン・アフガニスタン国境 1979 … WanderVogel2012/03/18

イラン・アフガン国境1979
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1979年11月のアジアハイウェー1号線のアフガンボーダー。
イランのマシュハドから250kmほどローカルバスで東に走ると、アフガニスタンとの国境に着きます。

国境には緩衝地帯(非武装地帯)という名の「地雷原」が、2つの国の国境間に延びています。
わずかに舗装されている幅10mほどの道路以外には対戦車地雷が埋まっています。(時々、野生ラクダが犠牲になると聞いたことがあります)

奥に見える建物はイラン側のイミグレーションオフィスで、緩衝地帯の国境間をこのバスに乗り、移動します。
イラン国境でこのバス待ちをしていた地元民と一緒に、おんぼろバスに乗り込み、アフガン側のイミグレーションへ向かうのですが、何しろこんな調子ですので、わずかな距離(目と鼻の先)の移動でもものすごく時間がかかります。

結局、1日で国境を通過出来ず、アフガン側国境手前で1泊することになってしまいましたが、その時泊めてもらった民家が本当に酷かった!
(見ず知らずの外国人を留めれくれたのですから、感謝することはあっても文句を言う筋合いは無いのですが…)
土で造った牢獄のような一人部屋を提供してもらったのですが、すきま風に揺れるローソクがドーム型の天井に不気味な影をつくりかなり薄気味悪い雰囲気で、おまけに数えきれないほどの「南京虫」の襲撃を受けました。

ほとんど眠ることも出来ず、朝一番に、一人しかいないアフガン側イミグレーションオフィサーのバラックのような事務所に飛び込み、入国スタンプを押してもらい ほうほうの体で逃げ出したことを思い出します。


アフガン側イミグレーションオフィスから、軍のピックアップトラックに乗せてもらい東に10kmほど走ると、国境の町イスラム・カラ(Islam Qala)に着きます。さらに、ローカルバスに乗り換えて130kmほど走るとヘラート(Herat)の町に着きます。

ヘラートからカンダハル(Kandahar)方面への移動は、ローカルバスとトラックがコンボイを組んで、前後に軍の装甲車を配してゆっくりとしたスピードでの集団移動になります。
ローカルバスの車体には、いく筋もの機関銃弾の貫通孔が並んでいて、孔だらけの風通しの良いバスだったことを思い出します。

バス乗り場近くにズラッと並ぶ露天の商店では、(ロシア製や中国製の)様々なカテゴリーの銃や弾丸、RPGなどが山積みで売られていました。

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世の中がまだおおらかだった時代のお話し … WanderVogel2012/03/20

GOVT GANJA SHOP 1980
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土漠(シルクロード)の建築を見て回ろう! と意気込んで日本を飛び出したのは、大学3年が終わった頃でした。

大学を1年間休学して、1979年の初夏に片道切符で一人 ヨーロッパに渡り、トルコからイラン革命まっただ中のイランを抜けて、ソビエト軍が南下して来たアフガニスタンから命からがら抜け出して、パキスタンを経てやっとインドに着いたのが、出発してから半年ちょっと経った1980年の2月頃だったでしょうか。
(3月末までには帰国して、復学手続きを取らなければ… と、急いで自分で立てた予定地を巡っていました。)

インドの街なかではビール1本買うのにもパスポート持参で、(大きな街でも数件しか無い)Liquor Shopの鉄格子の奥に座っている怖い役人のきびしいチェックを経てやっと買うことが出来る、そういう時代でした。

逆に町角には左上のような看板がそこここに目につきました。
(今はさすがにこれはないでしょうが)
インド国内では(外国人でも)自由にお酒が飲めない代わりに、あちこちに「GOVT.GANJA & BHANGA.SHOP」というのがありました。

直訳すると「政府公認 マリファナ(ハシシ)直売所」という意味です。
店の中に入ると、お兄さんが分銅ハカリで葉っぱを計りながら量り売りをしています。

なんともおおらかな時代でした。


もちろん私は建築を見るために、毎日忙しく歩き回っていましたので、こういった類いのものにはいっさい手を出したことはありませんよ。
ホントに。

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土の塔(ミナレット)・ウルムチにて 1984 … WanderVogel2012/03/24

ウルムチにて1984
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土漠の街、ウルムチは古くからシルクロードの交通の要衝で新旧いろいろな寺院・僧院・城壁・城郭などが多く残っています。
中にはすでに崩れ始めていて、周りの土と同化してしている建物・施設も多く見られます。

写真は土漠の中に建つイスラム寺院と変わった形のミナレットです。
どこの影響でこういう姿になったのかちょっと不思議ですが、かなりエキゾチックな雰囲気です。(どこで撮影したか、記憶が曖昧ですが…)


タクラマカン砂漠(土漠)の思い出と言えば、「葡萄の甘い香り」と以前も書きましたが、もうひとつ「香辛料の焼ける匂い」も忘れられないもののひとつです。
炭火でこんがり焼かれた羊のシシカバブの上から、豪快に振り掛けられた「香辛料」の焦げる匂い。

アフガニスタンともイランとも違う、タクラマカン独特のシルクロードの“匂い”がそこにはあります。

・・・不定期に つづく

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