横浜市省エネ住宅相談員更新講習会 … 建築の講習・建築2014/12/01

横浜市開港記念館
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横浜市省エネ住宅相談員というのをやっていたりするのだが、今日はその更新の講習会に参加してきました。

会場は横浜市開港記念館(写真)の1階のホールで行なわれた。
ここの開港記念館は士会の集まりや神奈川県ヘリテージマネージャーの講義・集会などでよく使われる場所なので、大変馴染みのある場所です。

横浜市開港記念会館は、もともと横浜開港50周年を記念して市民の寄付金により大正6(1917)年に公会堂としてレンガ造で造られた建物です。
(今は耐震補強などが施され、一部にRC造、SRC造の部分がありますけど)

横浜の代表的建造物の一つとして今でも中区の公会堂・ホールとして使われていて、多くの横浜市民に親しまれています。
また、角にそびえる時計塔が大きな特徴で、「ジャックの塔」の名前で親しまれています。この塔は関東大震災でもかろうじて倒壊せず残った貴重なものです。
(と、会場となった建物の自慢話はどうでも良いのですが、、)


横浜市省エネ住宅相談員というのは、横浜市独自の制度で、主に横浜市内の住宅の省エネ化を促進するため、一般市民の相談に乗ったり総合的な助言を行なったりする建築省エネの専門家ということです。

日頃している仕事のひとつである(住宅の)第三者監理業務は、新築住宅に対しての監理・検査・助言などが主ですが、この省エネ相談員の役割は主に木造住宅(軸組工法や2×4工法など)の省エネリフォームに対する相談・助言が多いようです。

どちらも相通じるところはたくさんありますから、そのへんは僕は区分けせずに考えてやっていますけどね。

省エネ住宅相談員は市の名簿に登録され、横浜市のHPで一般公開し市民に広く周知していく、ということですが、ほんとに広く周知されているかどうかは僕には解らない。

馬車道などで開催されている SILK ウォークラリー … 建築散策・文化財保全/HM2014/12/02

横浜SILKウォークラリー
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以前(今年6月の)Blogで、生糸のアンペラ梱包やその梱包に貼られた「生糸商標」のこと、また「蘭字」という(お茶の梱包に貼られた)薄い和紙で出来た「西洋文字を使った絵票(ラベル)」のことを書きました。

今横浜では、馬車道から日本大通りにかけて歴史的な建物をめぐりながら、「生糸商標」(の復元シール)をゲットしていくという「SILK ウォークラリー」というのをやっています。

横浜と生糸は切っても切れない関係にあります。
今年世界遺産に登録された「富岡製糸場」で作られた生糸も、最終的にはここ横浜の港から欧州に向けて輸出されていきました。その富岡製糸場も(三渓園を作った)原三渓が36年間も所有・経営していた、ということからも横浜と生糸が深い関係にあったことが解りますね。


こういう催しには、横浜市民としてはやはり積極的に参加していかねば、と僕は思っている。
というのも以前、横浜市とヘリテージマネージャーらで横浜の歴史的建築物を一般の方々に知ってもらうため、馬車道から日本大通りにかけての歴史ある建物を廻ってカードを集めよう! というイベントを手伝ったことがあったのだが、やはり参加人数がたくさんいないとこういうイベントはぜんぜん盛り上がらないんだよなぁ。

ということで、昨日 横浜市開港記念館に行ったついでに、とりあえず3カ所の施設を廻って生糸商標シール(チョップシール)を集めてきました。
県庁前のイチョウの並木はすっかり黄葉してハラハラと散り出して、歩道を黄色く染めていました。

で、これを三渓園に持っていくと、素敵なスペシャル小物をプレゼントしてくれるのですよ! すごいですね!
(その素敵なプレゼントというのが、商標の付いたただのクリアファイルであることを僕は知っているけど…、まぁ、それはそれとして、、)

何はともあれ、こういうイベントは一人一人が盛り上がりに加担することが大切なんだ。

「繭と鋼」展:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/06/16/
「明治大正の生糸産地と横浜」展:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/06/02/

山上の農園(12月)・ダイコンの収穫に思う … 畑仕事・WanderVogel2014/12/03

畑仕事・ダイコン収穫
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12月最初の畑仕事、午前中に少し時間があったので畑に出て近々使う分だけとりあえず収穫して、マメの出来具合の偵察を兼ねて1時間ほど農作業をしてきました。

冬に入って気温が下がってきているので、周りの雑草の伸びが抑えられて助かってます。

昨年のダイコン大量収穫騒ぎでひんしゅくを買ったので、今年はダイコンもカブも小ロットでの生産です。

虫除けの農薬などは一切撒いていないので、葉っぱの根元に毛虫がついていることはしょうがないとして、虫喰いはその程度で、ダイコン自体は元気いっぱいに育っています。
手前の玉ねぎとワケギはまだちょっと元気がありませんが、そのうちもりもり育ってくるでしょう。


下段の畑には絹サヤとスナップエンドウとそら豆を植えていますが、そら豆だけがまだ発芽していません。
種を蒔いたのが2週間ほど前ですからもうそろそろ伸びてくる頃でしょう。

今月中にはマメの支柱を立て込まないといけないな。昨年の支柱は若干強度不足だったので、今度はもう少し頑丈にしよう。


畑で育てる段階で「農薬」を使っていないから、安全・安心のようなことを書いたが、実際のことをいうとそう単純にはいかない。

撒いている「種」や「苗」そのものにしても、実は今売られている野菜の種はほとんど全てが F1(交配種:ハイブリット)の種で、病原菌や虫害に強く、良く育って歩留まりがよいようにあらかじめ交配して作られたものだからです。

その種子を実らせる親株には大量の農薬・化学肥料を使用しているわけですから、発芽後に有機栽培、無農薬栽培で作ったとしてもその影響は残るでしょう。
しかも、種を買うと、袋に「消毒済(農薬使用)」とまで書いてありますから、二重に薬漬けにされていると言えなくもない。


F1(交配種:ハイブリット)の種は、もともと子孫を残せない種です。
大手種苗メーカーらがいろいろと操作して(メーカー側は「研究を重ねて」、と表現するだろうが…)、育て易いが遺伝子的には欠陥を持つ植物(野菜)、というのを無理やりに作ってしまった。
別の品種と交配させてできたそういった「野菜」は、見た目は大根やニンジンの種で、育ったものも大根やニンジンの形をしていても、大根やニンジンとは言えない遺伝子に変化していると言えます。


EU諸国を中心に大きく問題視されているネオニコチノイド系農薬による(とみられる)ミツバチの大量死や大量失踪は、日本でも最近良く耳に入ってくる話題になっています。EU諸国では全面禁止になっているこういった農薬も、日本では禁止されることなく今でも水田(稲につくカメムシ防除のため)に大量に空中散布されています。

F1の野菜だって種を作る際はもちろん、植えて発芽すれば花も咲きます。実がなるのですから当然ですね。
同じように花にはミツバチが群がります。実態は解りませんが、F1(交配種:ハイブリット)作物にはミツバチの生殖能力を奪い、ミツバチの大量失踪に影響を与えているのでは、と懸念する声を聞いたことがあります。


遺伝子の交雑によって作られたF1(交配種:ハイブリット)は、完全な遺伝子組み換え種子とは言えませんが、内情はかなり怪しいことが解ります。

とは言え、今日本で出回っているこういう種子の9割以上をアメリカなどからの輸入にたよっています。日本特産と思われがちのダイコンやカブや春菊などでさえそうなんです。
もちろん海外から搬送されるときには、虫やカビが付かないようにあらかじめ殺虫剤などで処理(コーティング)されて運ばれてきます。

スーパーなどで売られている野菜は、ほぼ100%がこのF1(交配種:ハイブリット)の種で採れた野菜とも言われています。


日本で有機・無農薬栽培で作られた安全・安心な野菜の種を手に入れようと思ったら、自家採取している農家さんに直接分けてもらうか、そういった自然農法の種の交換会などに参加するしかないのかもしれません。

実際問題そこまで気にしていては食べるものが本当に無くなってしまうのですが、普段口にしているお米も野菜も一口に「有機・無農薬栽培」といっても、一方でそういう側面を持っているんだ、ということは知っておくべきです。

まあ、福島第一原発の原発事故でいまだに だだ漏れになっている放射性物質の悪影響に比べれば、これくらいの影響なんて取るに足らないことなのかもしれませんけどね。

ブナの木肌に残るクマの爪痕 … 自然観察・WanderVogel2014/12/04

ブナに残るクマの爪痕
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先日歩いた西丹沢・中川川上流西沢渓谷の杣道探訪で見かけたクマの爪痕。

西沢沿いに延びる登山道を歩き、下(指紋)棚沢との出合い付近で登山道を離れ、ケモノ道のような様相の杣道を登る。

この「クマの爪痕」は、人だと歩くのがやっとという急斜面を注意深くトラバースしている時に見つけたもので、傷跡から見てもそう昔につけられたものではない。
ツキノワグマはよくブナの木に登ってブナの実を貪り食べながら、樹の上の方にクマ棚を作るという。これも木に登る時に付けた傷なのだろう。

毎年晩秋になると、関東甲信越から東北にかけて東日本のいたるところでクマの姿が目撃されるようになります。

クマだってこれからの冬眠に備えて、今のうちに栄養を貯えておかねばイケませんから、とにかくたくさん食べておきたいところです。
今年は山を歩いていても、ブナの実もドングリ類なども昨年と比べて格段に数が少ないように感じます。お腹をすかせば、人里近くにまで降りてこざるを得ないこともあると思います。


僕はまだ山でクマに遭遇したことはありませんが、こういう痕跡をみると近くで人間の行動を見張っているのはクマの方ではないのかな、と思うことがあります。
クマはクマなりに、なんとか人と遭遇しないように一定の距離を取って、うまいことやり過ごしているのではないか。山に関しては僕らより彼らの方がずっと良く知っているし、山は彼らの家なのですからね。


あまり身近にクマとは出会いたくないものだが、こういう痕跡探しはとても興味深く、面白いものです。

これから本格的な冬に突入します。
冬芽観察だけでなく、山の動物の足跡(フットスタンプ)探しやケモノ道の探索、動物の糞の観察など、これからの季節は春から秋にかけての緑の山歩きとはまた違った魅力が山には溢れます。

壮大な山岳の景色を堪能することが最大の魅力の「ピークハント登山」では解らない、森林限界以下の山歩きの魅力がそこにはあります。

神奈川県ヘリテージマネジャー講座の危機? … 邸園/文化財保全・HM2014/12/05

明治時代の象の鼻と大桟橋
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ヘリテージマネジャーの育成と相互の活動連絡・広報などに尽力してきた県の担当者から緊急のお知らせが届いた。

神奈川県が行なっている県知事認定の「ヘリテージマネージャー」制度、平成21年度から今年度まで計6回開催され、その間に150名強のヘリテージマネージャーを輩出してきました。

ヘリテージマネジャーの取り組みというのは、今や全国的な動きになっています。
写真に写っている横浜・象の鼻周辺の景観保存はもちろんのこと、山手地区の西洋館の保存活動、三渓園での保存利活用、湘南地区で行なわれている明治時代の別荘建築群の保存活用、歴史的建造物群の保存といった地方での取り組みもそういった活動の延長線上にあります。

そのような状況の中、当初から予測されていたことだというのですが、県の予算(金銭負担)が次年度からなくなることがほぼ確実となったそうです。
ヘリテージマネジャーらが今ここでなんらかの行動を起こさないければ、この講座自体が消滅する運命にあるというのです。

神奈川県には(特に横浜や鎌倉には)歴史的な建築物・構造物がたくさんあることは一般にもよく知られていることと思います。
歴史的に価値のある建築物でも、ただ何もせずじっとしていてはいずれ壊されて忘れ去られてしまいます。

歴史的に重要な建築物に対し、しっかりと学術的に裏付けを取りその価値をまとめ(保全設計監理コース)、かつ積極的に保存・利活用(活用マネージメントコース)をしていかなければなかなか後世に残っていかないものです。

そのためには、建築史のみならず一般の歴史や古建築の構造・工法・素材など専門的な知識の継承と蓄積、またそれを一般に知らしめる活動の出来る専門家の育成がどうしても必要でした。
そのためのヘリテージマネージャー制度・専門講座の開催でありました。
(僕も一昨年、保全設計監理コースを修了して、県ヘリテージマネージャーに登録しています)

来週『緊急ヘリテージマネージャー集会』が開催されます。
講座の存続に向けてどういう可能性があり得るのか、具体的な行動として何が出来るのか、探っていきたいと思います。もちろん、僕も参加してきます。

紅葉真っ盛りの三渓園・古建築公開 … 三渓園・WanderVogel2014/12/06

旧東慶寺仏殿と紅葉
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紅葉真っ盛りの三渓園、今日は快晴の土曜日とあって、多くの来園者で三渓園はいっぱいでした。

写真は鎌倉にあった有名な尼寺で、駆け込み寺といわれた旧東慶寺の仏殿です。
仏殿の正面に植えられたイロハモミジがちょうど見頃に紅葉・黄葉していて、ため息が出るほど美しい光景になりました。

移築された際に入母屋屋根から寄せ棟屋根に変更されたとはいえ、古風な禅宗様の意匠はそのままに残されています。
モノトーンな禁欲的なフォルムと、周りの色とりどりの紅葉とのコントラストが美しい。


11月22日から12月14日まで「紅葉の古建築公開」と題して、重要文化財の聴秋閣と春草盧の2棟が「公開」されています。
(両方とも内部には入れませんが、入口まで入ることが出来ますのでいつもよりもグッと近づけます。)


今日も前回に引き続き、ガイドボランティアの仕事は他の2名のボランティアさんに頼んで、僕は建物周辺の落ち葉清掃/片付けと枯れ枝の整理、囲炉裏で燃やすための薪割りなど、もっぱら力仕事で一日が終わってしまいました。
でも時々、作業を抜け出して園内を巡っています。せっかくのきれいな紅葉ですから僕も楽しまないと。

大池にはたくさんの水鳥が渡来し、来園者が与える鯉のエサをちゃっかり横取りしています。カルガモ、マガモ、オナガガモ、キンクロハジロ、アオサギなどが温かい陽射しを浴びて、大池にのんびり浮いています。

僕はいつも園内の茶屋で昼食を取るのですが、今日はさすがに園内に3つある茶屋全てが大入り満員で、もたもたしていて昼食を食べ損ねてしまいました。

三渓園大池に浮かぶキンクロハジロ(オス) … 自然観察・WanderVogel2014/12/07

三渓園大池のキンクロハジロ
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三渓園の大池に他の冬鳥に混じって、海ガモの仲間キンクロハジロが来ています。

もしかすると良く似たスズガモかとも思いましたが、違う角度から見ると頭の後ろの毛がボサボサなのでキンクロハジロで良いと思います。

カモには大きく陸ガモと海ガモの2種に分けられます。キンクロハジロもスズガモもどちらも海ガモの仲間に属します。

陸ガモなのか海ガモなのかの見分け方は、水に浮いている時の姿でおよその見当がつけられます。
陸ガモの仲間は水面に浮いている時にはお尻が水面から持ち上がって見えます。対して海ガモの方はお尻までベタッと水面にくっ付いています。

狩猟鳥(一日5羽まで)ですので、この時期に狩猟の出来る地域の池に浮いていると撃たれてしまう危険がありますが、ここではのんびりと人の近くまで寄ってきます。

カモには、水面に頭を突っ込んで逆立ちしてエサをとるものと、水の中にもぐって(泳いで?)エサをとるものとがありますが、キンクロハジロは潜水採餌カモの仲間です。
自然の状態ですと食事はもっぱら潜水してシジミなど貝類を食べているそうですが、ここでは来園者が池の鯉に与える「お麩」を横取りして食べています。
一緒に集まってきているマガモやカルガモ、オナガガモなどは陸ガモで水面で採餌するカモですから、水面に浮いているエサをとるのが上手です。
キンクロハジロもそのまねをして陸ガモと一緒にエサ取り競争をしていますが、見ているとどうしても遅れをとってしまっているみたいです。

海ガモの仲間は飛びたつ時に水面を助走したのちに飛び上がるので、池ではけっこう騒がしい鳥でもあります。

マガモやカルガモなど陸ガモは水面から直接飛び上がることが出来るのですが、体重の重たいキンクロハジロは助走を付けないと飛び上がれません。海ガモはみな飛行艇US-2のような助走を付けた飛び上がり方をします。


ちなみに、今話題の垂直離着陸可変プロペラ機「オスプレイ」は、もともとは鳥(猛禽類)のミサゴを指します。
ミサゴは空中で獲物を見つけると素早く翼を羽ばたかせて、空中に静止するホバリング飛行を行った後に急降下し、水面近くで脚を伸ばし両足で獲物を捕らえて再び飛翔する、という行動をすることから名付けられたものです。
飛行機の方のオスプレイは「名は体を表す」なかなか良い命名です。

このカモの場合は、目が金色、頭や背、胸、尾、翼の上面が黒、翼に現れる帯が白ということで羽白ガモ、合せてキンクロハジロ、という名前が付きました。
こちらの方は結構単純な命名です。

家の近くの侍従川の街路樹:アキニレ … 自然観察・WanderVogel2014/12/08

アキニレの黄葉と翼果
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家の近くを流れる侍従川沿いの街路樹のアキニレが黄葉し、乾いた翼果が風に揺れていた。

ニレの樹にはハルニレとアキニレの2種があります。
ハルニレは春に花が咲き、春のうちに果実が成熟するのに対し、アキニレは秋に花が咲き秋のうちに果実が成熟します。

アキニレは日本の中部より西に分布するのですが、横浜は街路樹としてアキニレをよく目にします。馬車道の街路樹にもセンダンの木に混じってアキニレが植えられていたように思います。

葉は小振りで肉厚、固くしっかりとしていますが、黄葉(紅葉)した後に落葉する落葉樹です。
葉は左右非対称で、枝先に行くに従って(後から出た葉ほど)葉っぱが大きくなる、という変な葉の育ち方?をする。
葉の形も丸いものから細長いものまでけっこうバリエーション豊かです。
葉の基部が左右非対称になるのはニレ属(ハルニレ、アキニレ、ケヤキ、ムクノキ、エノキ)全般に言える特徴なのだそうだ。

落葉すると薄くて丸い翼果だけが枝に残り、そのまま年越しを迎えることが多いので、冬のアキニレは独特で変わったシルエットになります。
翼果は風に乗って遠くまで運ばれていくのに適した形状をしていますが、冬の終わりまでけっこうしぶとく残っています。

風が吹くと翼果全体が揺れてシャラシャラと音がするような感じがします。

樹皮(じゅひ)は不揃いな鱗片状にはがれ、まだら模様になりあまり美しくないが、それも特徴と言えばその通りですね。

旅の仕方について/中世古文書とヒマラヤの旅の共通点 … 旅・WanderVogel2014/12/09

ネパールヒマールの村
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ずいぶん古い写真である。今から30数年前に行った 1ヶ月以上に及ぶ山行・ヒマラヤ奥地を旅した時に撮った1枚だ。

ヒマラヤの奥地、チベット族の住む村には村の入口にはこういった門構えが必ずあって、そこをくぐって村に入る(あるいは村から出る)つくりになっている。
この門が結界の役割をしているのだろう。門の中には両側にマニ車が備え付けられていて、天井はドーム型に木組みされ花々の彩色が施されていた。


先日、net検索で歴博(千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館)の資料の中に「永禄六年北国下り 遣足帳(けんそくちょう)」という古文書を解説したもの(論文)を偶然見つけた。
これは京都に住むある僧侶が、永禄六年(1563年)の秋から翌年の冬までの1年以上に及んだ北国の旅で付けていた日記帳(支出報告書)のようなものだ。
時代的に1500年代後半と言えば、室町後期の戦国時代から安土桃山時代へと移行していく激動の時代だ。

この僧侶、旅の目的は定かでないらしいのですが、京都市伏見の醍醐寺を出発して日本海沿いに北上し、今の山形県南部を周り太平洋岸に出たあと再度日本海側に廻り込み、復路は途中の越中から飛騨に抜け下呂温泉から関ヶ原・琵琶湖を経由して京都に戻るというロングトレイルをしている。
足跡はそれだけでなく、途中 越後府中から信濃善光寺を往復したり、三国峠を越えて沼田を往復したり、とけっこうあちこちに寄り道をしている。

その旅の収支の記録が、今にちゃんと残っているのはかなり珍しいことなのだと思います。

何にいくら払ったか、どのようなペースで歩き通しているかなど、つぶさに記録されているのがとても興味深い。

(論文でも言及されているように)その内容からは、お金さえ払えば宿泊や食事ができるという中世後期の旅行システムの充実ぶりや、旅籠(はたご)に支払うのが 朝食代と夕食代のみであるといった、当時の旅の様々な側面が明らかになってくる。


なかでも目を引いたのが、旅籠(はたご)の宿泊料金(ホテル代)のしくみです。
以下はその内容を論じている箇所ですが、一文=100円換算でイメージしてみると分かり易いと思う。

…前略…
宿泊料金だが、近江から越後までの下りは、一泊四八文でほぼ一貫している。この旅は二人連れと思われるため、一人あたりなら二四文。そしてその内訳は、夕食代と朝食代一二文ずつである。(先述の東寺の記録の場合も全く同じであり、)宿泊料金は夕食代と朝食代で計算され、食事をとらなかった分はちゃんと減額されている。宿泊代が食事代のみということは、当時の宿がどういうものか、だいたい想像がつく。
食事は一人ずつ、 おそらく折敷(おしき)か何かにのって出てくるが、部屋は専有せず、大きな相部屋で、夜具や風呂も提供されない、ということになるだろう。
…略…
 昼食は、ほぼ必ずとっている。昼食をとるようになるのは近世から、とよく言われるが、体力を使う旅行の場合という面はあるにしても、必ずしもそうではないことがわかる。
昼食代は一定はしていないが、二〇文前後、すなわち一人一〇文前後のことが多い。
…略…
 この他、酒もよく飲んでいる。今の清酒のような精製度の高いものではないだろうから、エネルギー補給のためとも言えるが、東寺の記録ではほとんど酒を飲みに行ったのではないかと思われるようなほどよく飲んでいるし、「出立ち酒」「落ち着きの酒」など、何かにつけて儀礼的にも飲んでいる。
…略…
 道の険しいところなどでは馬が使われており、「駄賃」の記載もかなりある。正確な距離あたりの単価を出すのは難しいが、およそは距離に比例しているようであり、恒常的なサービスとして、やはり相場的な料金があったものと思われる。船賃の場合にも同じことが言えるし、また川の渡しでは、越前の三国湊(九頭竜川)、加賀の湊川、越中の神通川・常願寺川がそれぞれ一人四文と見なせ、広域的な共通性が認められる。
…後略…
と、論じている。(『歴博』No.124 特集「中世の消費」より)

これらの記述を見ると、日本の中世の「旅」の仕方や料金体制が、僕らが想像していたよりもかなりシステマチックで現代のものに近かったことが分かり非常に面白い。


その宿泊代のくだりで思い出したのが、僕が最初に中近東からネパールへと渡った1979~1980年頃のヒマラヤの山街道での宿泊システムと全く同じだったことだ。

ブータン・シッキムからネパール・インド・パキスタン・アフガニスタンへと延々と続くヒマラヤ山脈に縦横に走る「山街道」は、山に登るための登山道と言うよりは、地元の人たちが日常的に使っている「交易路」を僕たちも使って歩いていることになる。

その「路」は、チベット高原からヒマラヤを越えていくつもの交易路(シルクロード)として複雑に絡み合って伸びている。

ネパールヒマールだけでなく、タクラマカン砂漠からヒマラヤを越えフンザ・ギルギットへと向かう路も、ヒンドゥークシュ山脈を越えてアフガニスタンへと向かう路も、パミール高原を越えてタジキスタンに向かう路もみな「交易」が目的で(アレクサンダー遠征以前から)延々と使われてきた「路」です。

そこでは上記のように、朝食と夕食をその宿で取ることを引き換えに宿代は取らない、というシステムが古くから出来上がっていたように感じます。

もしかすると、平城京・平安京の時代から、中国の唐を経由しチベット高原やタクラマカン砂漠を越えて中近東を経てローマへと続く「シルクロード」の隊商宿はじつはそういう旅のシステムで統一されていて、日本の街道の宿も同じように、、、なんて想像すると何だかとても楽しくなってきます。


チベット高原の宿にも、タクラマカン砂漠の隊商宿にも、ネパールやヒンドゥークシュのバッティ(隊商宿)にも、アフガニスタンやイランの砂漠に建つ古びた隊商宿(キャラバンサライ)にも泊まった経験があるのだが、そう思ってみるとなんとも納得がいくから不思議なものだ。


ただし、2度目、3度目とヒマラヤに通う間に「宿代」という名目での支払いが出てきたので、「今は昔の」話しになってしまったが、、、
つづく…

旅の仕方について/街道の旅は万国共通? … 旅・WanderVogel2014/12/10

ネパールヒマールの村
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昨日のつづき… のような話し

写真は昨日の村の中を通るメインストリートを撮ったものだ。道の両脇には飯屋兼宿屋(バッティ)、商店や荷捌き場、仏教寺院などが立ち並んでいる。

建物の外壁の三方は、河岸から採取してきた岩石を平たく成形し、積んだだけの組石造・壁構造になってる。(大きな地震が来れば、横揺れ一発で倒壊しそうな造り方だ)

正面の開口部周りと屋根構造下地にはこの辺りでは貴重な木材を柱や梁に使った木構造になっていて、全体としては木と組石との棍構造になっている。
雨が降ることがあまりない気候なので、ほぼ水平に掛けられた梁・桁の屋根下地にそのまま石材を葺いている。

上の写真の路の左奥に薪が積んであるのがみえるが、周辺の山々から苦労してなんとか集めてきたものだろう。

暖房や煮炊きに使う熱源はこういった薪や粗朶に頼るしかないので、村の周辺の低い山々は木が生えていなくてさびしい姿になっている。
昨日の写真を見ても分かるように、切り出せそうにない急勾配の山肌にはかろうじて樹木が残っているが、基本的にはハゲ山化している姿が目につく。

標高的には森林限界ギリギリといっても、草木や樹木がまったく生育出来ないというわけではないのだが、結局は熱源の全てをバイオマスエネルギーに頼るしかないので、植林しても追いつかないというのが正直なところか。


ネパールヒマールの街道を歩く旅の仕方は、日本で言えば江戸時代の中山道(木曾街道)や北国街道の山奥を旅するのと同じような感覚だろうと思う。

中山道(木曾街道)で比較してみると、各宿場間は約二里くらい(最大でも五里)でつなげられているようで、今で言うと8kmくらいごとに宿場がある計算になる。(正確には、一里は三十六町で、約3,927mになる)
ざっくりと、2時間ごとに休憩を挟めるように宿場が配置されていたという感覚だろうか。

それぞれの宿場内には多いところで(本陣や脇本陣を除いて)30~40軒の旅籠があり、木曾の山中に入っても10軒~20軒程度の旅籠はあったようだ。ちなみに、有名な妻籠宿では31軒、馬籠宿では18軒の旅籠があったと記されている。
妻籠宿から馬籠宿までは、ちょうど二里(8km)の距離にある。

日本の江戸時代の旅の仕方を考えると(もちろん徒歩での旅ということだが)、夜明け前に泊まっていた旅籠(宿場)を出立し、日が暮れる前には次の宿泊地に着いているわけですので、8時間から10時間(春から夏の間)は歩ける計算になる。
ということは、普通に歩いて一日 八里程度(30km~40km/日)は歩いたのだろうから、昔の人はみな健脚だったのだろうな。もちろん平地での話しではあるが。


ネパールヒマールの街道でもだいたい同じようなスケール感で、宿場となる村々がヒマール街道に沿って点在している。
街道はどのルートでもそれぞれその渓谷に沿ってうまく付けられていて、河を渡河する箇所にはアクロバチックな吊り橋や、荷物を満載したヤクやロバが通行するメインの街道沿いではキャンティレバーの美しい木の橋などが掛けられている。

ヒマラヤを流れる河はどこもかなり急流で、水量も多く渓谷も深く狭いので、日本のように河を直接歩いて渡河するとか渡し船があったりすることはない。

また、山塊をまたいで街道が延びている箇所ではコルを(鞍部・峠)乗っ越すことになるのだが、ヒマラヤでは峠を越えると言ってもその峠の標高が4,000m~6,000mと、日本(馬籠峠で801m、碓氷峠で960m)とは比較にならないくらいの高地であることも大きな特徴だ。

ネパールヒマールを越えてチベット高原とインド亜大陸とをつなぐ隊商(キャラバン)の主な交易品は、一昔前までは主にチベット高原で産出される良質な岩塩(ヒマラヤ岩塩)だということを聞いたことがある。
その他にもインドで採れる米や穀物、チベット高原で採れる鉱物(宝石)や毛皮などの産品が盛んに行き来していたのだろう。

宿屋では昨日書いたように(1970代後半までは)、夕飯と朝飯を食べれば宿泊代は掛からなかった。
部屋に置かれたベット(インドやパキスタンでおなじみの木の枠に縄を編んで作られたベット:チャールポイ:Charpoy)で寝ることになるのだが、寝具は自分で持っていることが前提条件である。標高が高い分だけ、夜はかなり冷え込む。

頼めば毛布(のようなもの)を貸してくれるが、(たしか)別途料金が掛かったのと南京虫や蚤の問題など、いろんな面でちょっと危険…、、まぁ、風邪をひくよりはマシかもしれんが。


その頃(1970代後半)はミネラルウォーターといったシャレたものは山ではお目にかかれなかったので、水分補給は必ず沸騰したお湯か熱いチャイということになる。
なので、村に入ると必ずチャイ屋に立ち寄り1杯、2杯とチャイを飲むことになる。

4,000mを越える高地を歩き続けるには、喉が渇いていてもいなくても水分補給は絶対に欠かせない。これは高山病にかからない唯一の方法だと僕は今でも思っている。

街道の村や宿(バッティ)は日本とほぼ同様に2時間ごとに現れる感じで、休憩や食事にちょうどいい具合に時間配分されていて、これも昔の街道整備の知恵なんだろうと感心するとともに、たどり着いた村のチャイ屋で飲む1杯のチャイ(甘いミルクティー)は旅人にとってかなりありがたい存在だと実感した。
チャイはインドでは水牛の乳を使うが、ネパールの高地ではヤクの乳に変わる。

もっとも、チベット族オンリーの村に入っていくと、ミルクティーがグルグル茶(バター茶、磚茶)になるので、このお茶は正直「ありがたい!」とは言い難い。
そうはいっても贅沢は言えないので、結局なんだかんだ言ってもこの塩味のヤクのバター茶を飲むのではあるが…


その後何度か行っているヒマラヤトレッキングでは、かなり高地に行っても宿泊した宿や村の店でミネラルウォーターを手に入れることが出来るようになったのはうれしいこと。
高山病予防はだいぶ楽になった。

ヤクとテントとバター茶:http://hd2s-ngo.asablo.jp/blog/2014/11/20/

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